表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
239/246

女神の決意

 ヤムは酒を飲んでいた。


 ウガル港の酒場だ。船乗りと商人が入り混じる、潮の匂いがする店。カウンターの隅にヤムが座っていた。人間の姿をしている。だが杯の中の酒が微かに波立っていた。風はない。店の中は凪いでいる。それなのに——杯の中だけが揺れている。海の神の気配だ。


 席に着いた。


 ヤムは待っていたような顔をした。驚きもしなければ、迷惑そうな顔もしない。杯を傾け、酒を一口含んでから、こちらを見た。


「面白い噂がある」


 挨拶もなく、単刀直入だった。ヤムらしい。海の神は陸の礼儀を面倒くさがる。


「噂?」


「神々の間で囁かれているんだが——戦争の女神が人間に心を動かされた、というやつだ」


 アシュタルは杯を手に取った。酒を一口。喉が渇いていたが、酒で渇きを癒すのは悪手だ。だが今は考える時間が欲しかった。杯を口に運ぶ間の、数秒。


「アナトが? 誰に」


 本気で言った。


 ヤムが杯を傾け、アシュタルを見た。長い沈黙が落ちた。酒場の喧噪が遠くなったような気がした。


「お前、本気で言っているのか」


 ヤムの声に呆れが混じっていた。海の神にしては珍しい。普段は超然としているヤムが——呆れている。


「何が」


「いや——なんでもない。お前がそういう人間だということは知っている」


 意味が分からなかった。心を動かされたというのは——つまり、アナトが誰かに好意を持ったということか。戦争の女神が? あの、「口を慎め、人間」のアナトが?


 誰に。


 まさか——自分に?


 ばかな。


 アナトは戦争の女神だ。何千年も戦い続けてきた、カナアン最強の戦士だ。そしてアシュタルは商人だ。武力はない。走って逃げるのが精一杯の、ただの人間だ。神が人間に心を動かされるなどということが——


 あるはずがない。


 アナトがアシュタルに見せてきた態度を思い返した。「口を慎め」「人間ごときが」「うるさい」。嫌悪とまでは言わないが、好意の欠片かけらもない。……そうだろう?


 いや、待て。


 門の前で力を削った。「合理的な判断だ」と言いながら。「それだけだ」と言いながら。手が震えていたのに。


 だがそれは——兄を救うための契約があるからだ。アシュタルが死んだら契約が無効になる。だから守っているだけだ。合理的な判断。それ以上の意味はない。


 ないはずだ。


 ヤムが言葉を選ぶように口を開いた。


「神と人間の間に感情が生まれることは——禁忌だ」


 酒場の空気が変わった。ヤムの声が低くなり、周囲の喧噪が一瞬だけ遠のいた。


「禁忌」


 その一語が、石のように重かった。


「なぜか分かるか」


 アシュタルは首を横に振った。


「——続きは次に会った時だ」


 ヤムが席を立った。杯を置き、銅貨を一枚カウンターに残して、振り返りもせずに出ていった。扉が閉まると、杯の中の酒の波立ちが止まった。海の神の気配が消えた。


 一人残された。


 酒場の喧噪が戻ってきた。船乗りの笑い声、杯がぶつかる音、誰かが歌い始めた。だがアシュタルの耳には、一つの言葉だけが残っていた。


 禁忌。


 心を動かされた? アナトが? 誰に?


 ——まさか。


 だが「禁忌」という言葉が引っかかった。タブーには理由がある。商人は禁忌を「理由のある制限」として見る癖がある。禁輸品には禁輸の理由がある。取引禁止には禁止の理由がある。禁忌にも——理由がある。


 アナトの暗い表情が蘇った。バアルが良くなるほど苦しそうな顔。距離を取る態度。「もう用はない」と言いかけた声の冷たさ。


 全てが繋がりかけていた。だがまだ一つだけ、足りないピースがある。


 禁忌とは具体的に何だ。神と人間の間に感情が生まれると——何が起きる?


 もしかして——


 杯の酒を一気に空けた。答えは明日、ヤムに聞く。


 眠れない夜がまた一つ増えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ