女神の決意
ヤムは酒を飲んでいた。
ウガル港の酒場だ。船乗りと商人が入り混じる、潮の匂いがする店。カウンターの隅にヤムが座っていた。人間の姿をしている。だが杯の中の酒が微かに波立っていた。風はない。店の中は凪いでいる。それなのに——杯の中だけが揺れている。海の神の気配だ。
席に着いた。
ヤムは待っていたような顔をした。驚きもしなければ、迷惑そうな顔もしない。杯を傾け、酒を一口含んでから、こちらを見た。
「面白い噂がある」
挨拶もなく、単刀直入だった。ヤムらしい。海の神は陸の礼儀を面倒くさがる。
「噂?」
「神々の間で囁かれているんだが——戦争の女神が人間に心を動かされた、というやつだ」
アシュタルは杯を手に取った。酒を一口。喉が渇いていたが、酒で渇きを癒すのは悪手だ。だが今は考える時間が欲しかった。杯を口に運ぶ間の、数秒。
「アナトが? 誰に」
本気で言った。
ヤムが杯を傾け、アシュタルを見た。長い沈黙が落ちた。酒場の喧噪が遠くなったような気がした。
「お前、本気で言っているのか」
ヤムの声に呆れが混じっていた。海の神にしては珍しい。普段は超然としているヤムが——呆れている。
「何が」
「いや——なんでもない。お前がそういう人間だということは知っている」
意味が分からなかった。心を動かされたというのは——つまり、アナトが誰かに好意を持ったということか。戦争の女神が? あの、「口を慎め、人間」のアナトが?
誰に。
まさか——自分に?
ばかな。
アナトは戦争の女神だ。何千年も戦い続けてきた、カナアン最強の戦士だ。そしてアシュタルは商人だ。武力はない。走って逃げるのが精一杯の、ただの人間だ。神が人間に心を動かされるなどということが——
あるはずがない。
アナトがアシュタルに見せてきた態度を思い返した。「口を慎め」「人間ごときが」「うるさい」。嫌悪とまでは言わないが、好意の欠片もない。……そうだろう?
いや、待て。
門の前で力を削った。「合理的な判断だ」と言いながら。「それだけだ」と言いながら。手が震えていたのに。
だがそれは——兄を救うための契約があるからだ。アシュタルが死んだら契約が無効になる。だから守っているだけだ。合理的な判断。それ以上の意味はない。
ないはずだ。
ヤムが言葉を選ぶように口を開いた。
「神と人間の間に感情が生まれることは——禁忌だ」
酒場の空気が変わった。ヤムの声が低くなり、周囲の喧噪が一瞬だけ遠のいた。
「禁忌」
その一語が、石のように重かった。
「なぜか分かるか」
アシュタルは首を横に振った。
「——続きは次に会った時だ」
ヤムが席を立った。杯を置き、銅貨を一枚カウンターに残して、振り返りもせずに出ていった。扉が閉まると、杯の中の酒の波立ちが止まった。海の神の気配が消えた。
一人残された。
酒場の喧噪が戻ってきた。船乗りの笑い声、杯がぶつかる音、誰かが歌い始めた。だがアシュタルの耳には、一つの言葉だけが残っていた。
禁忌。
心を動かされた? アナトが? 誰に?
——まさか。
だが「禁忌」という言葉が引っかかった。タブーには理由がある。商人は禁忌を「理由のある制限」として見る癖がある。禁輸品には禁輸の理由がある。取引禁止には禁止の理由がある。禁忌にも——理由がある。
アナトの暗い表情が蘇った。バアルが良くなるほど苦しそうな顔。距離を取る態度。「もう用はない」と言いかけた声の冷たさ。
全てが繋がりかけていた。だがまだ一つだけ、足りないピースがある。
禁忌とは具体的に何だ。神と人間の間に感情が生まれると——何が起きる?
もしかして——
杯の酒を一気に空けた。答えは明日、ヤムに聞く。
眠れない夜がまた一つ増えた。




