最後の粘土板
嵐が一日来ていなかった。
ウガルの空は穏やかだった。雲は高く薄く流れ、潮風がゆるやかに港を抜けていく。商人たちが通りに出て空を見上げている。バアル帰還以来、こんなに穏やかな空は初めてだった。破壊された桟橋の修理に取りかかる者もいる。嵐が来ないなら、港は生き返る。
バアル神殿の石壁に触れた。結露が減っていた。
冥界の冷気は、バアルが帰還してからずっと神殿に滲んでいた。石壁が冷たく汗をかき、神殿の空気は常に湿っていた。だが今日は——石壁が乾いている。指先に伝わる温度が違う。ほんの少しだけ、温かい。
奥の間に入った。
バアルが半身を起こしていた。
前回来た時は横たわったまま意識も朦朧としていた。嵐の力が体の中で暴れ、制御できずに苦しんでいた。だが今——目が開いている。焦点が合っている。半身とはいえ起き上がっていることが、劇的な変化だった。
「嵐が減ったのは分かっている」
バアルの声は低く、掠れていたが、意志がこもっていた。嵐神の声だ。力の残滓が言葉の端々に震える。
「制御が戻り始めたのですか」
「完全ではない。だが——轡が手の中に戻ってきた感覚はある」
轡。あの比喩だ。暴れ馬と壊れた轡。以前アシュタルが分析した、バアルの力の暴走パターン。轡が壊れていたから制御が効かなかった。だが今——修復が始まっている。予測は正しかった。
良い知らせだ。
だがアナトの表情は晴れなかった。
彼女はバアルの傍らに立っていた。腕を組み、壁にもたれている。いつもの姿勢だ。だが顔が違う。バアルの回復を喜ぶべきなのに、追い詰められたような目をしていた。
「良い知らせなのに」
アシュタルが声をかけた。意図はなかった。思ったことがそのまま口に出ただけだ。
アナトは一瞬目を合わせた。金色の瞳がアシュタルを捉え——すぐに逸らした。
「そうだな」
短く答えた。それだけだった。
商人の目が、自動的に観察を始めていた。
アナトの態度には違和感があった。バアルが回復に向かっている。嵐が減っている。客観的に見て状況は好転している。兄の回復を喜ばない妹はいないだろう。だが彼女の表情は——暗い。
好転しているのに、暗くなっている。
論理的に考えた。バアルが良くなるほどアナトが苦しそうに見えるのはなぜか。
一つの可能性が浮かんだ。
バアルの力が安定すれば、アナトが制御に付きっきりでいる必要がなくなる。アナトが自由になる。自由になれば——アシュタルの近くに戻れる。
だがそれが《《問題》》なのだとしたら?
アシュタルの近くにいることが、アナトにとって問題なのだとしたら。バアルの側にいる理由が、制御のためだけでなく——アシュタルから距離を取る口実でもあるのだとしたら。
バアルが回復する。口実が消える。アナトはアシュタルの近くに戻るか、別の理由で距離を取らなければならない。どちらにしても——彼女は追い詰められる。
推論は、ここで止まった。
なぜアナトがアシュタルの近くにいることを問題にするのか。それが分からない。嫌われているわけではないだろう。少なくとも——そう思いたかった。嫌悪なら、もっと分かりやすい態度を取る。アナトは嘘が下手だから。
何かが彼女を苦しめている。
それは——アシュタルに関係があるのかもしれない。
神殿を出た。振り返ると、奥の間の入り口にアナトの影が見えた。腕を組み、壁にもたれ、アシュタルが去る方向を見ている。
その目が——暗かった。
久しぶりの青空の下で、アシュタルは歩いた。穏やかな風が頬を撫でた。嵐がない日。バアルの回復の兆し。良い知らせばかりだ。
だが胸の中に、影が落ちていた。
バアルが良くなるほど、アナトは暗くなる。何かが彼女を苦しめている。そしてそれは——アシュタルに関係がある。
まだ「何か」は分からない。だが商人の勘が告げていた。この答えは、遠くないところにある。




