神殿の異変
夜。帳面に二つの列を作った。
左側に「バアル戦線」と書いた。力の回復、嵐の制御、時間との勝負。バアルの状態は少しずつ安定しているが、完全な回復には程遠い。冥界の冷気が残っている間は力の暴走が起きる。制御には時間が必要だ。だが時間は——モトが食い潰していく。
右側に「モト戦線」と書いた。情報戦の継続、民心の維持、公開討論の後手。使者の脅迫を宣伝に転化したのは一時的な勝利に過ぎない。モトの工作は止まっていない。噂は街角に染み込むように広がっている。バアル不在中の冥界の秩序——使者が突きつけた事実は、反論しがたい正論のまま残っている。
二つの列を並べて眺めた。
気づいたことがある。どちらの戦線にも、同じ名前が必要だった。
アナト。
バアル戦線では、アナトの力がバアルの制御を助けている。嵐が暴走しかけるたびにアナトが力で押さえ込んでいる。彼女がいなければバアルの力は再び暴走し、ウガルに嵐が戻る。モト戦線では——アナトの戦闘力と神の知識が必要だ。使者との交渉に人間一人で臨むのは限界がある。商人の口は立つが、神の使者と渡り合うには「後ろ盾」が要る。アナトという戦争の女神がいるのといないのとでは、交渉のテーブルの重さが違う。
だがアナトは一人しかいない。
そして彼女はバアルの側を選んでいる。
シャリムが茶を持ってきた。杯を受け取りながら、率直に聞いた。
「アナトに来てもらうことは——無理か」
シャリムは首を横に振った。
「バアルの制御を離れたら嵐が暴走する。人間の被害がまた出る。女神様はそれを許さないだろう」
そうだ。アナトは許さない。人間の犠牲を出すことを、あの女神は許さないのだ。——少なくとも、今のアナトは。初めて会った時の彼女なら「人間が何人死のうと知ったことか」と言っていただろう。変わったのだ。いつの間にか。
詰んでいる。
商人としての最悪の状況だ。リソースが足りない。二つの戦線を同時に戦えるだけの駒がない。どちらかを諦めるか、第三の方法を見つけるか。
だが諦めるわけにはいかない。バアル戦線を捨てれば嵐が暴走する。モト戦線を捨てれば民心がモトに傾く。どちらを失っても天秤が崩れる。
帳面を見つめた。
「不便だ」
口からこぼれた。また、あの言葉だ。
だが今度は——自分でも分かった。「不便」では説明しきれない。
アナトがいないことの不便さを、戦略的な空白として処理しようとしていた。リソースが足りない。手数が足りない。後ろ盾がない。全て正しい。全て論理的だ。だが——それだけでは説明できない重さが、胸の奥にある。
帳面に「不便」と書こうとして、筆が止まった。
不便。
違う。
アナトがいないことを「不便」の一語で片づけてきた。最初はそれで収まった。戦略上の空白。リソースの不足。合理的な問題。だが今は——収まらない。一語では。
胸の奥で、帳面には書けない何かが、静かに膨らんでいた。
商人の頭が「リソース不足」と処理しようとする。だが胸の奥が「それでは足りない」と言っている。
二つの戦線にアナトが必要だ。
だが彼女はバアルの側を離れない。
「不便だ」
もう一度言った。言って、首を振った。
「——いや、違う。それだけじゃない」
帳面を閉じた。
第三の方法。それを見つけなければ、天秤は傾き続ける。バアルの力を安定させ、モトの政治攻勢を食い止め、アナトを——
何だ。アナトを、何だ。
取り戻す?
言葉が見つからなかった。商人は言葉を扱う生き物のはずなのに、今夜は言葉が足りなかった。
灯りを消した。暗闇の中で天井を見つめた。
シャリムの寝息が隣の部屋から聞こえる。家の音。生活の音。だがどれだけ耳を澄ましても、ある音だけは聞こえなかった。
剣を鞘に収める、硬い金属音。
夜の見回りから帰ってくる、軽い足音。
「まだ起きているのか、人間」という、低い声。
眠れなかった。




