古い契約の痕跡
広場に、また使者がいた。
昨日と同じ半透明の体。だが今日は空気が違った。昨日の使者は穏やかだった。民衆に語りかけ、事実を並べ、静かに退いた。弁士の仕事を過不足なく果たした。だが今日の使者は——足元の石畳が白く凍っている。半透明の肌の下を冷気が脈打つように流れていた。
怒っている。
アシュタルは群衆の後方から使者を観察した。商人の目が自動的に査定を始める。姿勢が違う。昨日は両手を広げて民衆を迎えるような立ち方だった。今日は腕を組んでいる。閉じている。「話を聞かせよう」から「用がある」に変わった。使者の目がゆっくりと広場を舐めるように動いた。
誰かを探している。
「昨日の商人はどこだ」
使者の声が広場に落ちた。冷気が地面を這い、群衆の足元を掠めた。何人かが息を呑み、後ずさる。アシュタルの名を知っている者たちの視線が、群衆の後方に集まった。
視線は重い。物理的な重さがある。数十の目がアシュタルの位置を指し示し、使者の半透明の瞳がそこに合焦した。
「——ここにいますよ」
声が出た。自分でも少し驚いた。膝は震えていたが、声だけは平坦に保てた。商人の技術だ。声を作るのは得意だった。震える膝は隠せなくても、声は作れる。群衆が左右に割れ、道ができた。モーセの海割りのようだ——と思ったが、こちらは預言者ではなく商人で、割れた先にあるのは約束の地ではなく死神の使者だった。
使者の前に立った。
「商人アシュタル」
使者が名を呼んだ。名前を知っている。昨日の討論の後で調べたのだろう。いや——モトが調べさせたのだ。死神が、一介の商人の名前を。
「モト様はお前の名を知っている」
やはり。
「冥界に逆らう者の末路は——分かっているだろう」
静かな声だった。怒鳴りはしない。脅迫に怒声は要らない。静かに事実を告げるだけでいい。冷気が足元を這い上がり、アシュタルの足首を舐めた。群衆が更に距離を取った。使者とアシュタルの間に、誰もいない空間が広がっていく。
孤立。
これが脅迫の本質だ。物理的な暴力ではなく、周囲から切り離す。味方を遠ざけ、一人にする。商売でもよくある手口だった。独占契約で取引先を囲い込み、交渉相手を孤立させる。やり方は同じだ。相手が死神の使者でも、商人でも。
だから——対処法も同じだ。
深呼吸を一つ。
「覚えていただけて光栄です」
アシュタルは笑った。商人の笑顔。人懐っこくて、少しだけ図々しい。父親譲りの、取引先を安心させる笑顔だ。
「商人は誰とでも取引します——モト様とでも」
群衆がざわめいた。
死神の使者に臆さず商談を持ちかける人間。それは勇気なのか、愚かさなのか。群衆には判断がつかないだろう。だがアシュタルには分かっていた。これは勇気でも愚かさでもない。計算だ。
脅迫に震えれば、群衆は「あの商人はモトに屈した」と覚える。だが商談を持ちかければ——「あの商人はモトにすら怯まなかった」と覚える。どちらが得か。商人にとって、答えは明白だった。
「ならば覚えておけ」
使者の声が低くなった。冷気が一瞬だけ強まり、アシュタルの吐く息が白くなった。
「モト様の敵は長くは持たない」
「敵ではありません。取引相手です」
アシュタルは笑みを崩さなかった。
「敵と取引相手の違いは、席についているかどうかだけです。どうです、一席いかがですか」
使者は答えなかった。冷笑だけを残して、半透明の体が薄れていった。冷気が引いていく。石畳の霜が朝日に溶け始めた。
群衆の目が変わっていた。
昨日までアシュタルは「バアルを連れ戻した戦犯」だった。嵐の被害を招いた張本人。だが今——「モトに立ち向かった人間」になった。認知が変わる瞬間を、アシュタルは肌で感じた。商人は空気を読む生き物だ。今、広場の空気は「恐怖」から「驚嘆」に変わっている。
名前が広まった。
アシュタルの名前が——「死神の使者に臆さなかった商人」として。
だが。
帳面を開き、一行だけ書いた。
名前が広まった。盾にもなるが、標的にもなる。
商人は本来、目立つべきではない。裏方で動き、交渉のテーブルで仕事をする。表に出るのは最後の手段だ。だが——もう遅い。モトは確実にアシュタルの名前を記憶した。使者を送って脅迫してきた時点で、もう「無名の人間」には戻れない。
広場を離れる足取りは軽かった。膝の震えが止まっていた。だがそれは恐怖が消えたからではなかった。恐怖は経費だ。払えるうちは払う。今日の経費は——少し高くついたが、得た利益も大きい。
モト様とでも取引します。
ああ、我ながら大口を叩いたものだ。




