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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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選択の予感

 使者が再び広場に立った。


 三度目の演説。群衆は前回より多い。ウガルの半分が集まっているのではないかと思うほどだった。嵐の被害が続く中、「解決策がある」と言う存在の言葉を聞きたがっている。市場の商人も、港の漁師も、畑の農夫も、城壁の番兵ですら当番を交代して来ている。


 だが今日は一つ違った。


 アシュタルが広場の前列に立っていた。帳面を手に。


 群衆がざわめいた。


「あの商人が何かするのか」


「タグムの息子だ。嵐神を連れ戻した——」


「黙って聞いてりゃいいのに。使者様の話を邪魔する気か」


「いや、あの商人は頭が切れるぞ。何か考えがあるんじゃないか」


 さまざまな声。だがアシュタルの耳には入らなかった。帳面を握る手だけが、わずかに汗ばんでいた。


 昨夜、帳面に書いた質問を何度も推敲すいこうした。書いては消し、消しては書いた。長すぎれば聴衆が理解できない。短すぎれば使者が軽く流す。一言一句を吟味した。シャリムに聞かせて意見をもらった。「それでいい」とシャリムは言った。「一発で仕留めろ」と。


 使者が演説を始めた。


 前回と同じ論旨だ。バアル不在中の冥界の安定。帰還後の被害の拡大。モトによる解決の提示。数字は正確で、論理は明快で、結論は穏やかだった。丁寧語を崩さない。声は大きくないのに隅まで届く。


 群衆が頷く。同じ反応。同じ流れ。三度目だから慣れている。慣れは同意に近い。繰り返される言葉は——やがて真実の顔をする。


 演説の終わりが近づいた。使者が「正当な秩序の回復」という結びに入ろうとした、その瞬間。


 アシュタルが手を挙げた。


「一つ、質問してもいいですか」


 広場が静まった。群衆の頭が一斉にアシュタルの方を向いた。百人以上の視線が集中する。膝が震えた。だが——震えたまま口を回す。商人はそうやって生きてきた。


 使者の半透明の瞳がアシュタルを見た。


 微笑み。余裕の笑みだ。「どうぞ」と言う前から、答える準備ができている顔だ。何を聞かれても対応できるという自信。三度目の演説で質問が出るのは——使者にとっても想定内だったのだろう。


「どうぞ」


 アシュタルは一呼吸置いた。


 帳面に書いた質問を思い出す。何度も推敲した。削りに削った。核心だけを残した一文。商人が商談の山場で使うだ。相手の意識を引きつけ、次の一語に集中させる。早すぎれば流される。遅すぎれば間延びする。今だ——


「あなたのお話は素晴らしい。全て事実でしょう。一つだけ教えてください」


 使者が微笑みを深くした。余裕だ。


「モト様が嵐を止めたいのは——ウガルの民のためですか? それとも、バアルの力を冥界に取り戻したいのですか?」


 広場が凍った。


 音が消えた。風すら止まった気がした。


 使者の微笑みが——一瞬、凍った。


 一瞬だった。本当に一瞬だった。瞬きよりも短い時間。人間の目なら見逃すかもしれない。だがアシュタルの商人の目は——見逃さなかった。使者の口角がわずかに下がり、半透明の瞳の奥で何かが動いた。計算だ。答えを組み立てている。


 瞬きの間に微笑みは戻った。完璧な回復だった。


「両方です。民の安寧とモト様の秩序は両立します。嵐が止まれば民は安らぎ、秩序が回復すればモト様も——全ての存在が恩恵を受けます」


 見事な回答だった。論理的に隙がない。両方だと言えば矛盾はない。どちらか一方を選ばせようとしたアシュタルの問いを、包括的な答えで受け流した。百点の回答だ。


 だがアシュタルには分かった。


 そしてもっと重要なことに——群衆にも分かった。


 沈黙の一瞬が全てだった。


 使者は「考えた」のだ。本当に民のためなら、考える必要はない。即答できるはずだ。「もちろん民のためです」と。迷う余地がない問いだ。子どもに「お母さんのこと好き?」と聞いて、一瞬でも黙る子がいるだろうか。黙ったなら——それは答えが単純ではないからだ。


 使者の沈黙は——「民のためだけではない」と告白したのに等しい。


 群衆の表情が変わった。劇的にではない。微妙に。頷いていた首が止まり、眉がわずかに寄り、隣の者と目を見合わせる。「あれ?」という程度の変化だ。大声で反論する者はいない。使者の回答は論理的に正しいからだ。だが——何かが引っかかる。あの一瞬の沈黙が、喉に刺さった小骨のように残っている。


 使者がアシュタルを見た。微笑みの奥に、初めて——硬いものが見えた。鋼の冷たさだ。これまでの穏やかな微笑みの下に、これが隠れていたのだ。


「面白い質問ですね、商人」


「ありがとうございます。商人は質問が商売道具ですから」


「モト様は——あなたに興味をお持ちです。覚えておくとよいでしょう」


 それは警告だった。穏やかな口調に包まれた警告。だがアシュタルは笑顔を崩さなかった。商人の笑顔だ。どんな脅迫を受けても笑える。


 使者が広場を去った。冷気の残像が足元に漂う。通った道の花壇が——また枯れていた。


 群衆が散り始めた。だが散り方が前回と違っていた。前回は使者の言葉に納得して帰った。足取りが軽かった。今日は——考えながら帰っている。立ち止まって隣の者と言葉を交わす者がいる。首を傾げている者がいる。


 完全な勝利ではない。使者の論理は崩れていない。回答も論理的に正しい。だが——種を蒔いた。疑念の種を。


 商人は知っている。


 種はいつか芽を出す。水をやらなくても——雨が降れば。そして嵐の季節に、雨は必ず降る。


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