アナトの距離
泉の水面が、月光を映していた。
ウガル郊外。城壁の外、丘を一つ越えた先にある泉。昼間は女たちが洗濯に来る場所だが、夜明け前のこの時刻には誰もいない。虫の声すら聞こえない。水面だけがかすかに揺れている。風はないのに。
アシュタルは泉のほとりに立っていた。外套のフードを被っている。城壁の門番に見咎められないよう、暗いうちに出てきた。アシェラとの接触場所は——彼女が指定した。伝手を辿って連絡を取ったのは昨日の夕方だ。返事は水盤の水面に文字が浮かぶ形で来た。夜明け前の泉。それだけだった。
水の気配が変わった。
泉から立ち上る湿気が温かみを帯びた。冬の朝の泉は冷たいはずだ。だが今、水面から立ち上る霧が——温かい。母親の体温のような温かさだ。
波の音が聞こえてきた。どこからともなく。泉は海ではない。波などないはずだ。だが耳の奥に——遠い海の波の音が微かに響いている。潮の香りがする。泉の水が、一瞬だけ海の色に変わった。
アシェラが姿を現した。
温かみのある老婦人の姿。銀緑色の髪が風もないのにゆったりと揺れている。波打つ髪だ。海藻のように滑らかで、月光を受けて淡く光っている。穏やかな海緑色の瞳。だがその奥に——途方もない時間が蓄積されていた。何千年、何万年という歳月を見てきた目だ。世界の始まりを知っている目。
豊かな体躯の成熟した女性。母性と威厳を同時に感じさせる。アナトの苛烈さとは正反対だ。この女神の前に立つと——叱られることはないだろうが、全てを見透かされている気がする。
「夜明け前に呼び出してすみません」
「構わないわよ。あたしは眠らないもの。——で、急ぎの用とは?」
「単刀直入に伺います」
「商人らしいわねえ。回りくどい神々の会話に慣れてると、あなたみたいな直球は清々しいわ。どうぞ」
「モトの使者が省いている情報は何ですか」
アシェラが微笑んだ。穏やかに。だが目の奥に鋭さがあった。母性的な笑みの中に、老練な外交官の目が光っている。
「商人らしい問いだこと。『何を知りたい』ではなく『何が隠されている』と聞くのね。普通の人間なら——いえ、普通の神でさえ、まず自分の疑問を述べるものよ。でもあなたは違う。相手が隠しているものを直接訊く。商売の才能ね」
「商人は——相手が見せたがらないものに価値を見ます」
「そうね。それがあなたの強みだわ。ではお答えしましょう」
アシェラが泉のほとりに座った。衣の裾が水面に触れる。水面に波紋が広がった。だが普通の波紋ではない。波紋が光を帯びて、泉全体が淡く輝いた。
「バアルが不在の七年間、冥界が安定していたのは事実よ。使者の言う通り。死者は安らかで、秩序は保たれていた。それは嘘じゃない」
「ですが——」
「ですが、それはモトが優秀だったからじゃないの」
アシェラの声が少しだけ低くなった。母が子に真実を告げる時の声だ。
「冥界がバアルの残留する力を吸い上げていたからよ。バアルは冥界に自ら留まったでしょう。七年間。その間、嵐の力が少しずつ冥界に染み込んでいった。冥界は乾いた砂地のようなもので、バアルの力は水のように浸透していったの。冥界はその力を使って安定を保っていた」
アシュタルの呼吸が止まった。
「つまり——バアルの力が冥界の安定を支えていた」
「そういうこと。モトが冥界を安定させたのではなくて、バアルの力を使って安定させていたの。農夫が自分で雨を降らせたと言い張っているようなものよ。実際には——空に雲があったから雨が降っただけ」
帳面に書き込んだ。手が震えている。興奮だ。仮説が裏付けられた。ヤムの情報と合わせて——もう仮説ではない。事実だ。
「もう一つ」
アシェラが続けた。水面に指を浸す。波紋が広がるたびに、泉の光が揺れた。
「モトが『嵐を止める用意がある』と言っているでしょう。あれはつまり——バアルの力を冥界に戻したいということ。バアルの体ではなく、力を。力さえ戻れば冥界は再び安定する。バアルが生きていようが死んでいようが構わない。力だけが欲しいの」
「バアルの力が冥界を支えていたなら——」
「モトはバアルなしでは冥界を維持できない。冥界の『安定した統治者』というのは——借り物の力で成り立っていた幻想よ。モトはそれを知っている。だから焦っている。バアルが地上に戻って力も地上に戻れば、冥界は不安定になる。使者が公然と現れたのは——余裕の表れじゃなくて、焦りの裏返し」
使者の「正論」の前提そのものが崩れた。
アシュタルの目が輝いた。興奮を抑えて整理する。帳面を開き、書き込む。
モトの真の恐怖——バアルの力がないこと。
使者の正論の欠陥——前提条件の隠蔽。
モトの真の目的——バアルの力の冥界への回収。
「ありがとうございます。アシェラ様」
アシェラが立ち上がった。泉の水面がまた揺れる。波の音が遠ざかっていく。
「この情報の対価は——いつか聞いてほしいことがあるの。今ではないけれど」
「いつか?」
「ええ。あなたがエルに会うことがあれば——その時に。あの人に伝えてほしいことがあるの。妻として。——でも今はまだ、その時じゃないわ」
それだけ言って、アシェラの姿が薄れていった。銀緑色の髪が霧に溶けるように消える。波の音が遠ざかり、潮の香りが消えた。泉は元の静かな水面に戻った。冷たい、普通の泉に。
だが手の中に武器がある。
モトの「正論」を崩す武器が。
夜明けが近い。東の空が白み始めている。帳面を胸に抱いて、アシュタルはウガルに向かって歩き始めた。




