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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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モトの書簡

 港に、見慣れない船が入ってきた。


 白い帆に海の紋章。波を切る船首が真珠のように光っている。帆は風を受けていないのに膨らんでいた。海そのものが船を押しているのだろう。だが何より目を引いたのは——波の動きだ。船の両側を、海そのものがうやうやしく割れていく。船が海を進んでいるのではない。海が船に道を開けている。


 ヤムの船だった。


 嵐の合間のなぎ。風が止み、波が穏やかになる束の間の平穏。バアルの力が一時的に鎮まっている時間帯。その静寂を縫うように、海の神の船がウガルに入港した。入港のタイミングまで計算している。嵐の最中に来れば船が壊れる。凪を見計らって来た。


 アシュタルは桟橋に立っていた。半壊した桟橋の、かろうじて残った部分に。足元の板が軋む。体重を片足に寄せないように気をつけながら、入港してくる船を見つめた。


 船から一人の男が降りてきた。


 長身で均整の取れた体躯。深い藍色の髪が潮風に揺れている。腰まで届く長髪が、常に濡れているように見えるが、触れれば乾いているのだろう。瞳は穏やかなあお。首筋から鎖骨にかけて鱗のような紋様が見える。海風が彼を中心に渦巻き、潮の香りが一段と強くなった。


 ヤムだった。海峡の交渉以来の再会だ。あの時はアシュタルが商談を持ちかけ、ヤムが交渉に応じた。海の通行権を巡る取引。商人として初めて神と対等に渡り合った経験だった。


 だが——雰囲気が変わっていた。以前の傲慢さが消えている。バアルに敗れ、海の覇権を失った神。敗者の影が——傲慢の代わりに余裕に変わっていた。敗北を消化した者だけが持つ余裕。負けた経験が人を——いや、神を変えるのだ。


「久しぶりだな、商人」


 ヤムが声をかけた。軽い調子。取引相手に再会したときの挨拶だ。だが目の奥には計算がある。海の神の碧い目が、港の惨状を見渡していた。壊れた桟橋、沈んだ船、止まった交易。全てを見ている。


「久しぶりです。——何の用ですか」


「仲裁者として来た」


 仲裁者。予想していなかった言葉だ。


「バアルとモトの争いは海の交易にも影響する。港が壊れれば船が出せない。船が出せなければ海路が死ぬ。海路が死ねば——俺の領域が痩せる」


 ヤムは中立の立場で調停を望むと宣言した。バアルにもモトにも肩入れしない。ただ——海の秩序を守りたい。海上交易路の安全を確保したい。それが自分の利害に直結するからだ。


 正直な神だとアシュタルは思った。少なくとも——動機を隠さない。


 港近くの酒場に場所を移した。壊れた看板が斜めに傾いている酒場だが、中はまだ使える。酒場の主人がヤムを見て目を丸くしたが、アシュタルが「客だ」と言うと黙って奥に引っ込んだ。


 ヤムは酒を頼んだ。人間の酒。ざくろの果実酒だ。以前のヤムなら「人間の飲み物など」と鼻で笑っただろう。変わったのだ。敗北は神をも変える。


 アシュタルは水を頼んだ。商談の席で酒は飲まない。頭を鈍らせるわけにはいかない。


 ヤムが杯を傾けながら、港の損害について質問してきた。被害額。修復の見通し。交易の再開時期。的確な質問だ。海の神にとって港は——人間にとっての市場と同じだ。市場が機能しなければ商売にならない。


 アシュタルは観察した。ヤムの目が——港の損害を値踏みしている。商人が取引先の在庫を値踏みするように。壊れた桟橋の修復費、沈んだ船の損失額、止まった交易の逸失利益。全てを碧い目が計算している。


「中立」には理由がある。善意ではなく利害だ。


「一つ、教えてやろう」


 ヤムが酒杯を置いた。碧い瞳がアシュタルを見た。


「モトはバアルを殺したいのではない。バアルの『力』を取り戻したいのだ」


 アシュタルの目が見開かれた。


 昨夜立てた仮説と——一致する。冥界がバアルの力を利用していたという仮説。モトが欲しいのはバアルの体ではなく力だという推論。それと——一致する。


 心臓が速く打っている。仮説が裏付けられた。だがまだ一つの情報源だ。もう一つ裏を取らなければ確信にはできない。


「なぜ教えるんですか」


「中立者は情報を偏りなく配る。それが信用だ。バアル側にもモト側にも、必要な情報を渡す。偏れば中立は崩れる。中立が崩れれば——仲裁の席に着けない」


 論理的だ。理屈は通っている。だが——本当に中立な神などいるのか。


 利害で動かない存在が、わざわざウガルに来るか。嵐の合間を縫って、壊れた港に船を着けるか。何の見返りもなく情報を渡すか。


「ヤム」


「何だ」


「感謝します。情報の対価は——いずれ」


「ああ。商人だな、お前は。対価の話を忘れない。——嫌いじゃないぞ、その性分」


 ヤムが笑った。余裕のある笑みだ。以前の傲慢な笑みではなく、負けを知った者の笑みだ。


 酒場を出た。潮風が頬を撫でる。ヤムの船が港に停泊している。白い帆が夕陽を浴びて金色に光っていた。


 ヤムは中立だと言う。情報もくれた。だが——本当に中立な神などいるのか。


 その問いは、答えを出さずに胸の中に仕舞った。今は——アシェラに会うことが先だ。ヤムの情報とアシェラの情報を突き合わせれば、モトの真意が見えるかもしれない。


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