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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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世界の天秤

 帳面を何度も読み返していた。


 深夜。蝋燭の灯りの下で、使者の演説を書き起こした記録を睨んでいた。一語一語を指でなぞりながら、穴を探す。商談の相手の提案書を精査するときと同じだ。契約書の行間に罠がないか、一字一句を確かめる。


 全てが正しい。数字も、論理も、結論も。穴がない。


 帳面の余白に「反論ポイント」と書いた。


 その下は——白紙だった。


 筆を持ったまま、しばらく固まっていた。白紙を見つめるのは商人として恥ずかしい。取引先の提案に反論できないということは、取引で負けるということだ。だが——嘘のない提案に反論する方法が見つからない。


 シャリムが向かいに座っていた。夜通しの議論。もう何杯目か分からない茶が、冷えて机の上に置かれている。茶殻が杯の底に溜まっている。苦い茶だ。だが眠気覚ましにはなる。


「嘘をついてないなら崩せないのか?」


 シャリムの問いは率直だった。商人は回りくどいことを言わない。


「嘘をついてない。だが——全てを言っているわけでもない」


 アシュタルは帳面を叩いた。指の腹で文字を押さえる。


「商人の基本だ、シャリム。相手が言っていることではなく、言っていないことに注目する。売り手が『この布は丈夫です』と言ったら、肌触りについて何も言っていないことに気づけ。『この壺は大きい』と言ったら、厚みについて何も言っていないことに気づけ。言わなかったことが真実を語る。商品の欠点は、売り手が触れない部分にある」


「なるほど。で、使者が言わなかったことは?」


 帳面を広げた。使者の主張を項目ごとに分解する。箇条書きにして、一つずつ検討する。


 一、バアル不在中に冥界は安定していた。——事実だろう。七年間の統計を使者は挙げた。だが「安定していた条件」は何だ。安定には原因がある。原因について使者は何も言わなかった。「安定していた」とは言ったが「なぜ安定していたか」は言っていない。


 二、嵐神の帰還後に被害が拡大した。——事実だ。だが被害の原因は「バアルの存在」ではなく「バアルの力の不安定さ」だ。この区別を使者は省いている。バアルが健康な状態で帰還していれば、嵐は制御されていたはずだ。問題はバアルの存在ではなく、冥界残留の後遺症だ。


 三、モトが嵐を止める用意がある。——どうやって? モトは死の神だ。嵐を直接止める力はない。嵐を止められるのはバアルだけだ。ではモトが嵐を止めるには——バアルの力に何かをする必要がある。だが「何をするか」は言わなかった。


「ここだ」


 アシュタルは帳面の三番目を指した。


「使者は『嵐を止める』と言った。だがモトは死の神だ。嵐を直接止める力はない。嵐を止められるのはバアルだけだ。つまりモトが嵐を止めるには——バアルの力に何かをする必要がある」


「バアルの力に何かをする?」


「仮説だ」


 帳面に書く。推論の過程を全て記録する。後から検証するために。


「バアル不在中に冥界が安定していたのは、冥界がバアルの力を利用していたからではないか。バアルは冥界に自ら留まった。その間、嵐の力が冥界に染み込んでいった。冥界はその力を使って安定を保っていた。だからバアルが戻った今、冥界は不安定になっている」


 シャリムが目を見開いた。


「だとすれば、モトが『嵐を止める』というのは——」


「バアルの力を冥界に取り戻すということだ。民のためではなく——自分のために」


 仮説だった。証拠がない。検証する手段がない。人間のネットワークでは集められない情報だ。神の領域の話だからだ。バアルの力が冥界でどう作用していたか、人間に分かるはずがない。


 アナトがいれば——。


 一瞬、その名前が浮かんだ。アナトなら神の力の仕組みを知っている。アナトなら冥界の構造を理解している。アナトがいれば——この仮説を検証できる。


 いや、アナトはバアルの側だ。五日間、出てきていない。「誰にも会わない」と神官が言った。自分も含めて。


 他に神の事情に通じた存在は——。


「アシェラ」


 口に出した。


 母なる女神。海の女神。情報屋的な立ち位置にある、神々の母。エルの妻であり、カナアン神族の全てを見てきた存在。彼女なら——モトが省いている情報を知っているかもしれない。


 シャリムが立ち上がった。


「行くのか。アシェラに会いに」


「行く。正しい相手に勝つ方法は一つだ——相手が省いている情報を見つけること。情報の非対称性を解消する。それが——商人の戦い方だ」


 帳面を閉じた。仮説を帳面に挟み込む。検証のための旅。商人にとっての情報収集は、仕入れ先を開拓するのと同じだ。


 アシェラに会わなければならない。


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