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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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バアルの問い

 バアル神殿の回廊に、夕陽が差し込んでいた。


 長い回廊だ。石の柱が等間隔に並び、柱の間から赤い光が斜めに入り込んでいる。床の石畳に影と光の縞模様ができていた。回廊の壁には嵐の紋様が彫り込まれている。雷の稲妻、渦巻く雲、落ちる雨。バアルの力を讃える浮き彫りだ。だが今、その浮き彫りの一部にひびが入っている。バアルの暴走の余波だ。自分を讃える神殿すら、自分の力で壊している。


 石のベンチが空っぽだった。


 以前はここでアナトと情報交換をしていた。嵐のパターン、バアルの状態、モトの動向。ベンチに並んで座り、時には口論し、時には沈黙し——それが日常だった。アナトはいつも右側に座った。左側はアシュタルの定位置だ。どちらが先に座るかで小さな意地の張り合いをしたこともある。アナトは絶対に先に座らなかった。「人間が先に座れ。私は立っていても疲れない」。それは命令の形をした配慮だった。いつだってそうだ。あの女神は——不器用に、命令の形でしか優しさを表現できない。


 ベンチの上に、誰かが置き忘れた花が一輪、しおれていた。水がなければ花は枯れる。当たり前のことだ。花が必要としているのは——水だ。それだけだ。


 アシュタルは回廊を歩き、奥の間の前で立ち止まった。扉は閉ざされている。厚い石の扉だ。中からかすかに結露の音が聞こえる。ぱた、ぱた、と。バアルの熱気が水滴を生み、水滴が床に落ちる音。規則的だ。この音だけが——奥の間に生き物がいることを教えている。


 扉の脇に立つ神官に声をかけた。若い神官だ。祭服が汗で湿っている。奥の間の蒸し風呂のような環境に、人間の体が悲鳴を上げているのだろう。


「アナトは?」


「女神様はバアル様の側をお離れになりません。食事も取られず、力を使い続けてバアル様の暴走を抑えておいでです」


「何日になる」


「もう五日です。一度もお出になっていません」


 五日。戦争の女神が五日間、兄の傍を離れない。食事を取らず、眠らず、自分の神力を消耗し続けて。赤い光が流れるのを、アシュタルは見た。アナトの力がバアルに注がれていた。あれを五日間——休みなく。


「伝言を頼みたい。嵐のパターン分析ができた。彼女の意見が聞きたい。暴走と制御不能の区別がつけられた。回復の見込みについて——」


 神官が困った顔をした。頭を下げる動作がぎこちなかった。申し訳なさそうに目を伏せる。


「申し訳ありません。女神様は——誰にも会わないと」


 誰にも。


 その一語が、思った以上に重かった。


 以前なら「アシュタルなら通せ」と言われていた。少なくともそう信じていた。自分は契約者だ。旅の相棒だ。冥界を共にくぐり抜けた仲だ。情報の共有は双方にとって合理的なはずだ。商人と女神の間には契約がある。契約がある限り、報告と相談の義務がある。


 だが今は——「誰にも」の中に自分も含まれている。契約も、旅も、共にくぐり抜けた冥界も——「誰にも」の前では等しく退けられた。


 帰り道を歩いた。夕陽が石畳を赤く染めている。長い影が足元から伸びて、進む先を黒く塗っていた。影を踏みながら歩く。自分の影だけが、付いてきている。


 自宅に着き、帳面を広げた。バアルの力のパターン分析。嵐の間隔。北からの直接波と南からの反射波。制御不能の構造。全て書き上げている。だが——集中できない。


 数字を見返す。いつもなら数字の間に推論が浮かぶ。パターンが見え、仮説が立ち、検証の道筋が描ける。商人の頭はそうやって動く。数字は嘘をつかない。数字だけが信用できる。


 だが今日は——数字が数字のまま止まっている。推論が浮かばない。頭の回転が鈍い。なぜだ。睡眠は取った。食事も摂った。体調は悪くない。なのに頭が動かない。帳面の数字が——ただの染みに見える。


「不便だ」


 口に出した。


 アナトがいれば神殿側の情報が入る。バアルの体温の変化、暴走の頻度、冥界の冷気の残留量。神の領域の情報は人間のネットワークでは集められない。いくら商人の情報網を使っても、神の体の内部で何が起きているかは分からない。アナトがいれば嵐のパターンについて神の視点での意見が聞ける。人間の商人の分析と戦女神の直感を突き合わせれば、もっと精度の高い推論ができるはずだ。


 それだけではない。アナトがいれば——議論ができる。アシュタルが仮説を立て、アナトが「馬鹿か」と否定し、アシュタルが「聞いてくれ」と食い下がり、アナトが渋々聞いて、最後に「……悪くはない」と小さく呟く。あの流れが——頭を回す潤滑油だった。


「不便だ」


 もう一度呟いた。


 だがその一語が、全てを説明していない気がした。不便。情報が得られないから不便。戦略が立てられないから不便。議論の相手がいないから不便。それは事実だ。だが——それだけか。不便で説明がつくなら、シャリムに相談すればいい。シャリムは有能な商人だ。議論の相手としては申し分ない。だが——シャリムでは駄目な何かがある。何が駄目なのか分からない。ただ——シャリムとは違う、あの金色の瞳が見ている前でなければ、頭が回らない気がする。


 窓から神殿の方角を見た。遠くに神殿の尖塔が夕陽を受けて光っている。赤い光。アナトの髪の色に似ている——と思って、その考えを打ち消した。色の連想に意味はない。商人が色に意味を見出すのは、商品の染色を値踏みするときだけだ。


 アナトの横顔を思い出した。


 バアルの額を拭いていた、あの横顔。赤い髪が頬にかかり、金色の瞳が伏せられていた。戦争の女神の姿ではなかった。誇り高い苛烈さも、不器用な威圧感もなかった。ただ兄を心配する妹の顔だった。戦場でしか生きてこなかった女神が、布を絞って額を拭くという——何でもない動作をしていた。


 あの表情を見た時、胸の奥で何かが動いた。名前のつけられない何かが。帳面に記録できない種類の感覚が。損益計算書には載らない——帳簿の外の感情が。


 帳面に目を戻した。数字。パターン。論理。商人の世界だ。感情は帳面の余白に書くものではない。感情に名前をつけると——取引に支障が出る。取引の相手に情を持つのは商人失格だ。


「不便だ」


 三度目。だが今度は声に出さなかった。


 言葉にすると、何か別のものが漏れてしまいそうだったから。


 帳面を閉じた。


 蝋燭の灯りが窓辺を照らしている。神殿の方角だけが、いつまでも視界の端に残っていた。


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