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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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目覚め

 蝋燭の灯りが揺れるたびに、帳面の数字が影を落とした。


 夜だった。家族が寝静まった後、アシュタルは作業机に向かっていた。帳面を三冊並べている。一冊目は被害データ。二冊目は嵐の発生記録。三冊目は——まだ白紙の分析帳。


 商人が在庫を棚卸しするように、災害を棚卸しする。仕入れ帳を整理するときと同じだ。品目を並べ、数量を確認し、損益を計算する。違うのは——この棚卸しの品目が「壊れた桟橋」と「沈んだ船」であることだけだ。


 嵐の発生時刻を並べた。


 一日目——朝の第三刻に一回。

 二日目——昼の第六刻と夕の第九刻に二回。

 三日目——早朝の第一刻、午後の第五刻、深夜の第十一刻に三回。

 四日目——朝の第二刻に一回。


 間隔を計算する。最初は丸一日空いた。次は半日。次は八刻やつどき。次は六刻。次は——また丸一日。


 一定ではない。だが完全にランダムでもない。ランダムなら、こんなに綺麗に間隔が短縮していかない。何かのパターンがある。


 持続時間を見る。最初の嵐は二刻。次は一刻半。次は三刻。その次は半刻。長さもばらばらだ。だが——風向きに注目すると、規則が浮かぶ。


 北寄りの風のときは嵐が長く、南寄りのときは短い。


 バアル神殿は北にある。


 帳面に矢印を引いた。北——神殿——バアル。南——港——海。嵐の力はバアルを起点に放射している。北寄りの風は神殿の方角から吹く風だ。バアルの力が直接流れ込む方角。だから嵐が長い。南寄りの風は反射波だ。力が海面で跳ね返って戻ってくる。だから短い。


 バアルの体温が上がる時間帯を思い出した。アナトが言っていた——冥界の冷気が残っている。冷気と嵐の力が干渉する。冷気が強まれば力が暴走し、弱まれば沈静化する。


 帳面に書いた。


 暴走ではない。制御不能だ。


 この区別は重要だ。暴走は力が壊れている。制御不能は力は無事だが手綱が壊れている。暴れ馬と壊れたくつわの違いだ。馬が悪いのではない。轡が壊れているだけだ。馬を殺す必要はない。轡を直せばいい。


 轡——すなわち制御機構——が壊れた原因は冥界残留の後遺症。冥界の冷気が神力の回路を阻害している。冷気が体から抜ければ制御は戻るはずだ。


 回復の可能性がある。


 帳面にそう書いて——手が止まった。回復の可能性はある。だが問題は時間だ。冷気が自然に抜けるのにどれだけかかるか。見当もつかない。人間の風邪なら数日で治る。だが神の体に残る冥界の冷気は——日数の単位で考えるものなのか、月数なのか、年数なのか。


 夜更けに、戸を叩く音がした。シャリムだった。


「眠れないのか」


「お互い様だろう。灯りが見えたから来た」


 シャリムが作業机の向かいに座り、帳面を覗き込んだ。冷えた茶を勝手に飲む。遠慮のない付き合いだ。幼馴染の特権というやつだろう。


 アシュタルが分析を説明した。嵐のパターン。風向と持続時間の相関。北からの直接波と南からの反射波。そして——暴走と制御不能の区別。


「つまり馬は生きてるが轡が壊れてるだけだと?」


 シャリムの要約は的確だった。商人同士の会話は無駄が少ない。


「そうだ。轡が直れば嵐は収まる。問題は——時間だ」


 冥界の冷気が自然に抜けるのを待てば、バアルの制御は回復する。だがどのくらいかかるか分からない。一ヶ月か。半年か。一年か。その間にどれだけの嵐が来て、どれだけの被害が出るか。


「その間にモトが動いたら?」


 シャリムの問いは的確だった。モトは知性的な敵だ。バアルが弱っている今が好機であることを、あの死神が見逃すはずがない。


 帳面の最後のページを開く。白紙だった新しいページに、筆を走らせた。


 回復見込み——時間がかかる。具体的期間は不明。

 敵の行動——不明。だが「今が好機」とモトが判断する可能性は極めて高い。

 最大のリスク——バアルの回復前にモトが本格的に動くこと。


 三つの変数。自分がコントロールできるものは一つもない。


 商人として最悪の状況だ。全てが他人の行動に依存している。仕入れも売値も納期も、全てが自分の手の外にある取引。相場が読めない。在庫管理もできない。顧客の気分次第で全てが変わる。利益の出しようがない。


「回復の可能性はある」


 帳面を閉じた。


「だが問題は時間だ。モトが動く前にバアルが回復するか。賭けになる」


「お前は賭けが嫌いだろう」


「嫌いだ。商人が賭けに出るのは最後の手段だ。それまでは——確実にする方法を探す」


 シャリムが苦笑した。


「お前らしい。——で、確実にする方法はあるのか」


「今のところない」


「ないのかよ」


「ないから探すんだ」


 蝋燭の灯りが一つ消えた。残った灯りの中で、帳面の数字だけが確かなものとして残っていた。


 確実にする方法。それを見つけなければ。天秤が傾き続けている間に。


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