自覚
花が消えていた。
バアル神殿前の広場。かつては祈りの場だった。色とりどりの花が供えられ、焼き菓子や果物が石の祭壇に並び、嵐神への感謝が石畳を彩っていた。雨乞いの季節には朝から晩まで讃歌が響いた。
今は違う。
壊れた家財が積まれている。嵐で潰れた屋根の木片。浸水して膨らんだ穀物袋。曲がった農具。割れた壺。誰が最初に置いたのか分からないが、供物の代わりに被害の証拠が並んでいた。祈りの場が——告発の場に変わっていた。無言の抗議だ。
群衆が集まっていた。五十人、いや百人近い。漁師、農夫、商人、職人。港町のあらゆる階層が入り混じっている。普段なら仕事の時間だ。だが仕事が止まっている。嵐のせいで。
バアル神官が壇上に立ち、声を張り上げていた。白い祭服。両手を広げ、群衆を宥めようとしている。
「嵐神バアルの帰還は我々の祈りの成果です! 一時の混乱はあれど、バアル様の恩寵は必ず——」
「恩寵?」
群衆の中から声が飛んだ。太い声。漁師の声だ。
「嵐神が戻ってからのほうがひどいじゃないか! 俺の網は全部引き裂かれた!」
「不在のほうがまだましだった!」
別の声。女の声。たぶん市場の売り子だ。
「七年間、嵐は一度も来なかった! バアルがいないほうが平和だったんだよ!」
神官の顔が青ざめた。声がかき消されていく。広場に反響する怒号が、祈りの言葉を押し潰していた。
アシュタルは広場の端に立って、その光景を見ていた。帳面は閉じたまま。胸の内ポケットに入れている。数字を書く場面ではない。
人の声は数字より重い。
群衆の表情を読む。商人の習性だ。取引先の顔を読むように、群衆の顔を読む。怒り——だが単純な怒りではなかった。裏切られたという感情だ。七年間、祈り続けた。供物を捧げた。バアルの帰還を望んだ。夜ごと神殿に足を運び、嵐神の帰還を願った者もいるだろう。そして——帰還した。だが帰還がもたらしたのは恩寵ではなく、嵐と破壊だった。
信仰が揺らいでいる。
広場を横切ろうとした。目立たないように端を歩く。商人は群衆の中で目立つべきではない。群衆は感情で動く生き物だ。標的を見つけると一斉にそちらに向く。
だが——遅かった。
「あの商人だ」
声が聞こえた。足が止まった。
「タグムの息子。あいつが嵐神を連れ戻したんだろう」
「聞いたぞ。冥界まで行ったとか。大した度胸だが——」
「あの商人が嵐神を連れ戻さなければ——」
振り返ると、何人かの目がこちらを向いていた。
敵意ではなかった。もっと厄介なもの——失望と怒りの混合だ。「お前のせいで」という言葉は発せられなかったが、目がそれを語っていた。口に出さない非難は、口に出す非難より重い。反論の余地がないからだ。
群衆の視線が集まる感覚。皮膚がひりつく。商談の席で失敗したときに似ている。だがあれは取引先一人の視線だ。今は百人の視線が——自分に向いている。
一人の漁師が群衆を割って近づいてきた。日に焼けた顔。太い腕。手の甲に網の跡が残っている。海の男だ。背はアシュタルより頭一つ高い。
「お前がバアルを連れ戻したのか」
「ええ」
「お前が連れ戻した嵐神のせいで、俺の船が全部沈んだ。三隻だ。親父の代から使ってきた船だ」
事実だった。
反論する材料がない。嵐はバアルの力の暴走だ。バアルを連れ戻したのはアシュタルだ。因果は明白で、言い逃れの余地がない。この漁師の船を沈めたのは——間接的にはアシュタルだ。
アシュタルは——黙って頭を下げた。
商人としての対処だ。感情に逆らわない。事実を受け入れる。相手が怒っている時に正論を返せば火に油を注ぐ。「バアルを連れ戻さなければ一族が死んでいた」と言えば——「お前の一族と俺の船のどっちが大事なんだ」と返される。どちらも大事だ。だがそれを今言っても伝わらない。
まず受け止める。頭を下げる。それが商人の処世術だ。卑屈ではない。嵐が過ぎるのを待つのと同じだ。
だが胸の奥では「正しいことをしたはずだ」という叫びが渦巻いていた。バアルを冥界に閉じ込めたままにすれば、一族は「生ける死人」のままだった。弟の味覚は戻らなかった。声も出ないまま、触覚も鈍いまま、一生をそのまま過ごすところだった。バアルを連れ戻すしかなかった。
正しいことをした。
だがその結果が、この港の惨状であり、この漁師の怒りだ。
漁師は何も言わずに去った。頭を下げた商人に、それ以上の怒りをぶつける気力もなかったのだろう。あるいは——頭を下げる姿を見て、少しだけ気が済んだのかもしれない。
広場を離れた。路地に入る。日陰の涼しさが頬を撫でた。
そこで——別の声が聞こえた。
「モト様なら嵐を止められるのに」
足が止まった。
路地の奥、井戸端で二人の女が立ち話をしている。声は小さいが、商人の耳は聞き逃さない。取引先の囁きを聞き取る訓練は、こういう時に役に立つ。
「モト様は冥界を秩序正しく治めていたそうよ。バアルが不在の間のほうが穏やかだったって」
「嵐神なんていなければ——」
ぞっとした。
背筋を冷たいものが這い上がった。この声は——自然に生まれたものか。それとも誰かが意図的に流しているのか。
商人の勘が告げている。あの群衆の怒りは自然発生だ。だがこの噂は——仕込みの匂いがする。




