名前
石壁が、結露していた。
バアル神殿の奥の間。窓のない石造りの部屋に、水滴がびっしりと張りついている。天井から壁、床の継ぎ目に至るまで。バアルの体から立ち上る熱気が、空気中の水分を凝結させていた。部屋全体が蒸し風呂のようだった。呼吸をするだけで肺が湿る。
嵐の神が横たわっている。
石の寝台の上、薄い麻布をかけただけの姿。肌に稲妻のような光の筋が走っては消える。不規則に。脈拍のように——だが人間の脈よりずっと速く、ずっと乱暴だった。光が走るたびに、部屋の空気が震える。壁の結露がぱたぱたと落ちる。全盛期なら天候を大陸規模で制御できた嵐神が、今は自分の体温すら御せずにいた。
肌は浅黒いが、以前より白っぽい。痩せている。髪に白いものが混じっている。冥界に留まった代償が、神の外見にすら刻まれていた。右腕から胸にかけての雷の紋様も薄い。かつては濃い青で輝いていたはずの紋様が、今は水に溶けた墨のようにぼんやりとしている。
アナトがバアルの傍に座っていた。
冷たい布で額を拭いている。無言で。ただ拭き続けている。布を水盤に浸し、絞り、額に当て、また浸す。戦争の女神が、その繰り返しを黙々と続けていた。赤い髪が頬にかかっているが、払おうともしない。
アシュタルは入口に立って、その光景を見ていた。神官に通されて奥の間に入ったが、声をかけるタイミングを計りかねていた。この空間には——部外者の口を挟む隙がない。
「見世物じゃない」
バアルが目を開けた。濃い青の瞳。光は衰えていないが、隈が深い。視線に力がある。この嵐神は——体が弱っていても、目だけは死んでいなかった。
「見舞いに来ただけです」
「見舞いは要らん。状況を報告しろ」
嵐神の声には苛立ちがあった。横たわっている自分への苛立ち。弱っている姿を見られることへの王としてのプライド。バアルは力を失っても王だった。少なくとも——自分を王だと思い続けている。
「港の被害が拡大しています。嵐は三日で七回。頻度が——」
「知っている」
バアルが遮った。声に力がない。だが目だけは鋭い。天井を見つめている。いや——天井の向こうの空を見つめているのだろう。嵐が来るたびに、この嵐神は感じているのだ。自分の力が暴走していることを。
「俺が引き起こしている。分かっている」
苦い声だった。商人の耳は声の色を聞き分ける。この声は——罪悪感だ。王が民を傷つけている。守るべき存在を自分の力が壊している。それがバアルを蝕んでいる。冥界の冷気よりも深く。
アナトが手を止めた。一瞬だけ。金色の瞳が横を向き——すぐに布を絞り直した。何も言わない。
「アナト」
アシュタルが声をかけた。
「あなたも休んだほうがいい。ずっとここにいるんでしょう。何日だ——三日か、四日か」
アナトの金色の瞳がこちらを向いた。切れ長の目。疲労が滲んでいる。瞳の金色がいつもより濁って見える。だが本人はそれを認めないだろう。戦争の女神は弱さを見せない。見せることを己に許さない。
「必要ない」
短い返答。視線はすぐにバアルに戻った。
「冥界の冷気が体に残っている。力が暴走するのはそのせいだ。冷気と嵐の力が干渉して制御を狂わせている。私が抑えなければ嵐は止まらない」
それだけ言って、アナトはまた布を絞った。水盤の水が温くなっていた。バアルの体温が水すら温めている。
商人の目がバアルを観察する。体温が高すぎる。稲妻の筋は不規則——間隔が一定でない。長い間隔の後に短い間隔が連続し、また長い間隔が開く。これは「暴走」ではない。力そのものはある。だが手綱が壊れている。
冥界に長く留まりすぎた後遺症だ。冥界の冷気が神力の回路に残留し、嵐の力と干渉している。熱と冷が拮抗して制御系を壊している。馬は生きている。轡が壊れているだけだ。
この嵐神は限界に近い——だが、死にかけているわけではない。制御が戻れば回復する。問題は制御がいつ戻るか。
バアルが寝返りを打った。
壁にひびが入った。
音ではなかった。衝撃波だ。バアルの体から放たれた力の余波が石壁を揺らし、亀裂が天井まで走った。部屋の結露が一斉に蒸発し、蒸気が視界を白く染めた。足元が揺れる。アシュタルは壁に手をついて体を支えた。
アナトが即座にバアルの手を押さえた。
その瞬間——アナトの腕に光の脈が走った。赤い光だ。両腕の戦の紋様が一瞬だけ発光し、赤い光がアナトの手からバアルの腕に沈んでいく。吸い込まれるように。バアルの体の稲妻の筋が——一瞬だけ規則的になり、また乱れた。
自分の力を使ってバアルの暴走を抑制している。神力の注入だ。アナトの力をバアルの制御系に流し込んで、壊れた轡の代わりをしている。
アシュタルはそれを見逃さなかった。
力が流れている。アナトからバアルへ。制御のために、アナト自身の神力を消耗し続けている。三日間——いや、もしかしたらバアルの帰還直後からずっと。だから疲労が滲んでいるのだ。目の金色が濁り、動きが普段より遅い。戦争の女神が——消耗している。
だがアナトは「休め」と言われても動かない。兄の側を離れない。
それは妹としての義務だけでは説明しきれない何かに見えた。義務なら交代を頼むだろう。他の神に助けを求めるだろう。だがアナトは一人で——全てを背負おうとしている。バアルが自己犠牲的なのは兄妹で似ているのかもしれない。
神殿を出る際、アシュタルは一度だけ振り返った。
アナトがバアルの額を拭いている。赤い髪が横顔にかかっている。戦女神の姿ではなかった。誇り高い苛烈さも、不器用な威圧感もなかった。ただ——兄を案じる妹の姿だった。
だが今は、それより先に嵐のパターンを調べなければ。感情は後回しだ。
帳面を開いた。数字の世界に戻る。
回廊を歩きながら、さっき見た赤い光のことを帳面に書き留めた。アナトの力がバアルに流れていた。あれは——いつまで続けられるのだろう。戦争の女神にも、力の限界はあるはずだ。




