女神の咆哮
砕ける音が、朝から止まなかった。
波が桟橋の残骸を打つたびに、木材の軋みが港じゅうに響く。バアルが帰還してから三日。ウガルの港は——見るも無残だった。
アシュタルは港の端に立ち、帳面を開いた。
桟橋の半壊が三箇所。南側の大桟橋は杭ごと引き抜かれ、板材が波間に散らばっている。中央の荷揚げ桟橋は傾いだまま水に浸かり、上に放置された荷車が斜めに滑り落ちそうになっている。商船が三隻、横倒しになっていた。そのうち一隻は竜骨が折れている。船大工のザリルが朝から調べて首を振った。もう船としては使えないと。十五年前に進水した船だ。父タグムが若い頃に出資して建造させた、ベン=シャハル商会の誇りだった船。
潮の匂いに焦げた木材の臭いが混じっている。二日目の嵐で港の倉庫が一棟、火を噴いた。嵐の稲妻が屋根を打ち、乾いた穀物に引火したらしい。消火に駆けつけた人々の努力で延焼は免れたが、倉庫の中身は全損だった。
嵐が通るたびに波が瓦礫を洗い、そのたびに港の形が少しずつ変わっていく。昨日あった木片が今朝はない。代わりに別の場所から流れ着いた壊れた樽が転がっている。港が生き物のように——壊れ続けている。
空は晴れている。だが水平線には不穏な雲が常に湧き続けていた。あの雲の向こうに次の嵐が待っている。確信がある。三日間の観察で分かった。あの雲が膨らみ始めたら、半刻後には嵐が来る。
晴れているのに雲がある。矛盾だ。だがこの三日間、矛盾が日常になった。嵐神がいなければ嵐は来ない。嵐神が帰れば嵐が来る。いてもいなくても問題が起きる。商売で言えば、仕入れても損、仕入れなくても損という最悪の相場だ。
「アシュタル、来たか」
シャリムが倉庫街の角から現れた。手に束ねた紙を抱えている。各地の商人から集まった被害報告書だ。目の下に隈がある。三日間、寝ずに情報を集めていたのだろう。外套の裾が泥で汚れている。自分の足で現場を回ったのだ。
「集まったか」
「集まった。——見たくない数字だぞ」
シャリムの顔は笑っていたが、目は笑っていなかった。商人の顔だ。悪い知らせを伝えるときに、感情を表に出さない訓練を積んだ顔。
倉庫街の一角、雨を凌げる庇の下に腰を下ろした。残った木箱を台にして報告書を広げる。商人ネットワークが三日で集めたウガル全域の被害集計。アシュタルの目が数字を追った。
穀物倉庫三棟が浸水。貯蔵されていた小麦は全損——収穫期前の備蓄がこれで底を突く。南の交易路の橋が二箇所崩落し、内陸の都市ハラブからの物資が完全に止まっている。迂回路は山道で、荷馬車が通れない。漁船の七割が損壊。無事な船も出航を見合わせている——いつ嵐が来るか分からないからだ。塩田は高潮を被って全滅。塩は保存食の要だ。これがなければ肉も魚も保存できない。東の丘の果樹園は暴風で根こそぎ倒された。オリーブの木は一本育てるのに十年かかる。十年分の投資が一夜で消えた。
帳面に書き写す。数字を並べるたびに、指先が重くなる。筆がかすれた。墨を足す。数字は正確に書かなければならない。感情で数字を歪めるのは商人の恥だ。
「嵐は三日で六回」
アシュタルは帳面に記録した。日時と規模を書き添える。
「頻度が上がっている。初日は一回、二日目は二回、三日目は三回。倍々ではないが——加速している」
「加速? つまり明日は四回来るってことか」
「分からない。だがバアルの力が不安定になっている。帰還直後より、今のほうが制御が効いていない。嵐の規模も大きくなっている。初日の嵐は港の南側だけだった。三日目の嵐は港全体を覆った」
シャリムが眉を寄せた。報告書の束を叩いて、ため息をついた。乾いた風が報告書の端をめくる。
「嵐神を連れ戻した成果がこれか」
返す言葉がなかった。
事実だ。バアルを冥界から連れ戻したのはアシュタルだ。その結果がこの港だ。壊れた桟橋、沈んだ船、浸水した穀物、潰された果樹園。全てが——帰還の代償だった。命を賭けて冥界まで行った。アナトと共に嵐神を連れ戻した。正しいことをしたはずだった。だが正しいことの結果が——この惨状だ。
だが帳面を閉じるわけにはいかない。商人は事実から目を逸らさない。事実が悪いほど、正確に記録しなければならない。損害を把握しない商人は、対策も打てない。泣いている暇があったら数字を数えろ——父タグムの口癖だ。
被害総額の概算を走らせた。頭の中で数字が組み上がる。桟橋の修復費——木材と人夫代を合わせて銀三十ミナ。商船の損失——修理不能の一隻だけで銀八十ミナ、残り二隻の修理に銀四十ミナ。穀物の被害額——三棟分の小麦を現在の相場で換算すると銀五十ミナ。漁獲の逸失利益——漁船の七割が動けない期間を二十日と見積もって銀六十ミナ。塩田の復旧に銀十五ミナ。果樹園の損失は——計算するのが怖かった。十年分の投資の喪失だ。
足し上げていく。
出た数字に、アシュタルは一瞬だけ目を閉じた。
ウガルの年間交易高の三割。
たった三日で。
「シャリム」
「なんだ」
「これは始まりに過ぎない」
シャリムが黙った。数字を見なくても、アシュタルの顔を見れば分かったのだろう。商人が数字を前に目を閉じる——それは相当な額だということだ。
帳面を閉じた。だが閉じただけで数字は消えない。頭の中で数字が踊り続けている。桟橋の修復と嵐の頻度を重ねると——直しても直しても壊される計算になる。穀物の備蓄が底を突けば、食料価格が跳ね上がる。塩がなければ保存食が作れない。漁ができなければ蛋白源が消える。
一つ一つは対処可能な問題だ。だが全てが同時に来ている。そしてバアルの力が安定しない限り、嵐は続く。被害は拡大する。安定させる方法が——今のアシュタルには分からない。
港を出ると、遠くで雷鳴が聞こえた。
七回目だ。
水平線の雲が膨らんでいる。黒く、重く、内側で稲妻が脈打っている。嵐が来る。また来る。三日で七回目の嵐が。
アシュタルは帳面を握りしめ、バアル神殿の方角を見た。
始まりに過ぎない。
その言葉が、自分の声で反響していた。




