崩れる壁
出発の朝は、静かだった。
ウガルの門が朝日を浴びていた。石造りの門。幾度もの嵐に耐えた門。この門を出るのは二度目だ。一度目は百五十日前。あのときはアナトと二人だった。今度は——三人。
弟のヤリムが門の前に立っていた。
十四歳の弟。声が出ない。味がほとんど分からない。触覚も鈍い。感覚喪失の症状は緩和されたが、完治はしていない。それでも——弟は朝早くに起きて、ここまで来ていた。
ヤリムの口が動いた。
読唇——アシュタルが弟の口の形を読む。
「いってらっしゃい」
声にはならなかった。空気が唇の間を抜けただけだ。だが——口の形は、はっきりしていた。
アシュタルの胸が詰まった。
弟の前に屈んだ。
「帰ってくるよ」
ヤリムが頷いた。目が潤んでいた。だが泣かなかった。兄の前で泣かない。それが弟の意地だった。
ヤリムの口がまた動いた。
「甘いもの」
「ああ。約束だ。今度こそ——味が分かるものを持って帰る」
ヤリムが笑った。声のない笑顔。だがその笑顔が——何よりも重い約束だった。
立ち上がった。
父タグムが門の脇に立っていた。大きな身体。商人の手。朝日に照らされた父の顔は——穏やかだった。
言葉はなかった。
父が頷いた。一つだけ。深く。
それで十分だった。父と息子の間に、言葉は要らない。頷き一つが——「行ってこい」と「帰ってこい」と「信じている」を全て含んでいた。
母は家にいた。門まで来なかった。来られなかった。息子が再び旅に出ることに耐えられないのだろう。だが——今朝、食卓に干し肉と麦の焼き菓子が山のように積んであった。三日分ではなく、十日分はある量。母の答えはいつも食卓にある。
門の前に——バアルが立っていた。
外套を纏い、フードを被っている。嵐の神が旅装をしている。痩せた体躯。薄い雷の紋様。力は全盛期の三割。だが——瞳の光は衰えていなかった。濃い青の瞳が朝日を映している。
「行くのか」
アシュタルが訊いた。
「行かない理由がない」
バアルの声は落ち着いていた。
「あの方に——話がある。父として。息子として。そして——王として」
嵐の神の声に、覚悟があった。隠居した父に会いに行く息子の覚悟。自分を駒として使った存在に問いただす王の覚悟。
「嵐の先に答えがある」
バアルが言った。
アシュタルはその言葉を帳面に書こうとして——やめた。帳面に書くような言葉ではない。胸に刻む言葉だ。
アナトが来た。
赤い髪を高く結い上げていた。戦装束。双剣を背に負っている。戦女神の姿。旅支度というよりも——戦支度に近い。
アシュタルと目が合った。
一瞬だけ——金色の瞳が揺れた。距離を取っていた数日間の沈黙が、まだ二人の間に漂っている。
だがアナトは視線を逸らさなかった。
「準備はできたか」
「はい」
「荷が重くなりすぎたら捨てろ。体力の配分を間違えるな。水は惜しむな。——足を引っ張るなよ」
「努力します」
「結果を出せ」
いつもの遣り取り。だが——その奥にある温度が、少しだけ変わっていた。距離を取る前とも違う。距離を取っている間とも違う。何かが——変わった。
三人がウガルの門の前に立った。
嵐の神。戦争の女神。そして——一介の商人。
アシュタルは振り返った。門の内側に、弟と父の姿が見えた。弟の口が動いた。
「いってらっしゃい」
もう一度。声にならない言葉が、もう一度。
アシュタルは前を向いた。
「バアル」
「何だ」
「嵐の先に答えがある——でしたっけ」
「ああ」
「商人としては——もう少し具体的な見積もりが欲しいところですけどね」
バアルが苦笑した。初めて——出発の朝に笑った。
「アナト」
「何だ」
「ありがとう」
「礼を言うなと言った」
「はい。でも——一回だけ」
アナトが何か言いかけて、口を閉じた。金色の瞳が——一瞬だけ、柔らかくなった。一瞬だけ。
「さっさと歩け」
三人がウガルの門を出た。
朝日が石畳の道を照らしていた。北の方角に山々が霞んで見える。あの先に——二つの河が交わる場所がある。エルの住処が。
アシュタルは帳面を胸に抱いた。
帳面の最後のページに、出発前に書いた一文がある。
見えないものに値をつけに行く。
それが——この旅の目的だった。
エルの意図。世界の天秤。仲介者の役割。印の真実。バアルとモトの力のバランス。アナトの禁忌。一族の完治。
全てが——嵐の先にある。
見えないものばかりだ。だが商人は——見えないものに値をつけるのが仕事だ。
三つの引きが胸の中で鳴っていた。
知的好奇心——エルとの商談。世界を創った存在は、何を語るのか。
感情——アナトの禁忌。「私も行く」と言った女神は、何を選ぶのか。
危機感——モトの拡大。時間は待ってくれない。天秤は傾き続けている。
足を踏み出した。
嵐の先へ。
見えないものに値をつけに行く。
商人の旅が——また、始まった。




