嵐の夜(再び)
アナトが立ちはだかった。
翌朝。アシュタルが出発の準備を始めたとき——帳場の入口に、赤い髪が現れた。
数日間、距離を取り続けていたアナトが、そこにいた。腕を組み、壁に寄りかかり、金色の瞳がアシュタルを見ていた。仮面のような無表情。だが——無表情の奥に、何かが渦巻いていた。
「どこに行く」
「北です。エルの——」
「聞いた」
短く遮られた。バアルから聞いたのだろう。
「一人で行くのか」
「一人で行くつもりでした」
「馬鹿か」
アナトの声に、いつもの切れ味が戻っていた。数日間の沈黙が嘘のように。
「お前一人でカナアンの北の果てまで行けると思っているのか。人間の脚で。掠れた声で。武力もなく。道も分からず。——商人の自信はときどき正気を疑う」
「ペンダントが道標に——」
「道標があっても歩くのはお前だ。砂漠を越え、山を越え、盗賊を避け、野宿をして——お前は冥界の旅で身体をどれだけ傷めたか分かっているのか。声が掠れているのは喉だけの問題ではない。全身が——」
アナトが言葉を切った。
言い過ぎた、という顔をした。戦女神の顔に——一瞬だけ、後悔の色が走った。
アシュタルは黙っていた。
アナトは——心配しているのだ。距離を取って、逃げて、目を合わせずに過ごしていたのに——アシュタルが一人で危険な旅に出ようとしたとたん、こうして立ちはだかっている。
守るための拒絶。守るための怒り。
戦争の女神は——「守る」以外の方法で感情を表せない。
「行くな」
アナトが言った。
だが——その声は、命令の声ではなかった。何かを押し殺した声だった。「行くな」と言いたい。心からそう思っている。だが「行くな」と言う権利が自分にあるのか、分からない。だから声が——揺れた。
一拍の沈黙があった。
そしてアナトは——言い直した。
「私も行く」
帳場の空気が変わった。
アシュタルはアナトを見た。赤い髪。金色の瞳。腕を組んだ姿勢。壁に寄りかかっている。不機嫌そうな表情。
だがその不機嫌さの奥に——覚悟があった。
「お前一人では交渉にもならないだろう」
アナトが付け加えた。理由をつけている。「心配だから」とは言えない。「一緒にいたいから」とは言えない。だから——「交渉に必要だから」と。
嘘ではない。確かに、エルのもとへ行くなら戦女神の護衛は心強い。だが本当の理由は——そこではない。
アシュタルには分かっていた。
禁忌だと知っている。神が人間に近づきすぎれば、人間が壊れる。バアルが忠告した。アナト自身が、距離を取って逃げた。
それでも——行く。
アシュタルを一人にしないために。守るために。
それがアナトの答えだった。
「……ありがとうございます」
「礼を言うな。私は——私の都合で行くだけだ。あの方には聞きたいことがある。なぜ隠居した。なぜ助けてくれなかった。兄上が冥界に落ちたとき、なぜ何もしなかった。——あの方に文句を言いに行くだけだ」
嘘八割、本気二割。いや——本気三割かもしれない。アナトがエルに対して怒りを抱えているのは本当だ。だがそれだけが理由ではないことも、アシュタルには分かっていた。
「では、三人で行きましょう」
「三人?」
「バアルも行くと思いますよ。あの方と話がしたいのは、バアルも同じです」
アナトが黙った。兄の名前が出た途端、表情が僅かに変わった。複雑な変化。兄のそばに戻れない自分。兄のそばではなくアシュタルの隣にいようとしている自分。
それを自覚しているから——余計に、表情が硬い。
「バアルが行くかどうかは兄上が決めることだ」
「ええ。でも——」
「でも何だ」
「三人で行けると、心強いです」
アナトの瞳が——一瞬だけ、揺れた。
金色の瞳に映ったのは——何だったのか。安堵か、恐れか、それとも——帳面に書けない種類の何かか。
一瞬で消えた。仮面のような無表情が戻った。
「さっさと準備しろ。出発は明後日だ。それまでに荷をまとめろ。水と食料は最低三十日分。お前の体力に合わせた行程を組む。——足手まといになるなよ」
「足手まといにならないよう努力します」
「努力ではなく結果を出せ」
アナトが壁から背を離し、帳場を出ていった。赤い髪が廊下に消えた。足音はなかった。戦女神に足音はない。
一人になった帳場で、アシュタルは深く息を吐いた。
胸が——軋んでいた。
アナトの「私も行く」。
禁忌だと知っている。それでも行く。
それがアナトの答えだ。
帳面に書けない答えだ。
帳面を握りしめて、準備を始めた。
明後日——出発する。エルのもとへ。天秤の前へ。
三人で。
嵐の神と、戦争の女神と、一介の商人。
世界を創った存在と——商談をしに行く。




