知らない顔
バアルの顔から、血の気が引いた。
神殿の奥間。アシュタルが粘土板を差し出した瞬間、嵐の神の表情が凍りついた。
アナトも来ていた。アシュタルが神殿に駆け込んできたとき、バアルの隣にいた。距離を取っていたはずのアナトが——アシュタルの異変に反応して、ここにいた。戦女神の本能が、危機を嗅ぎ取ったのだろう。
「どこでこれを」
バアルが訊いた。声が低い。普段の落ち着きが消え、嵐の前の緊張があった。
「エル神殿です。門が——開いていました」
「開いていた?」
「僅かに。中は無人でした。でも祭壇にこれが——」
バアルが粘土板を受け取った。両手で持ち、文字を見つめた。
読んでいる。読めている。嵐の神には——あの古い書体が読める。
バアルの喉が動いた。唾を飲んだ。嵐の神が——唾を飲んだ。
横でアナトが粘土板を覗き込んだ。金色の瞳が文字を追い——止まった。
アナトの肩が強張った。
「これは——」
アナトの声が震えていた。戦争の女神の声が。
「読めますか」
アシュタルが訊いた。心臓が速い。自分でも粘土板を読んだ。読めた。だが——確認が必要だった。自分の読みが正しいか。
バアルが口を開いた。
「——『仲介者よ。天秤の前に来い』」
奥間が静まった。
天窓から差し込む光だけが動いていた。埃が光の中で舞っている。その光の中で、三人が固まっていた。
「天秤の前に来い」
アシュタルが繰り返した。掠れた声で。
仲介者よ——つまり、アシュタルに宛てた言葉だ。印に「選ばれし仲介者」と刻まれた存在への。
天秤の前に——天秤。バアルとモトの力のバランス。生と死の均衡。世界を支える天秤。
来い——招待だ。命令ではなく。
「エルの——」
バアルが言いかけて、止まった。
名前を口にしかけた。何日も避けてきた名前を。嵐の神が父の名を——口にしかけて、止めた。
その沈黙が、全てを語っていた。
「これは——あの方の筆跡ですか」
アシュタルが静かに訊いた。
バアルが目を閉じた。長い息を吐いた。嵐の神の息が、奥間の空気を揺らした。
「……ああ」
一言だった。だがその一言には、千年分の重さがあった。
「間違いない。この書体。この力の込め方。この——」
バアルの手が、微かに震えていた。嵐を操る手が。
「これはあの方のものだ」
沈黙が落ちた。
三人が粘土板を見つめていた。たった一行の文字。「仲介者よ。天秤の前に来い」。
アシュタルの頭が動いた。商人の頭が。
これは——エルからの招待状だ。
「準備ができたとき、現れる」とバアルが言った。現れたのはエル本人ではなく、メッセージだった。だが——それで十分だ。
エルは動き出した。隠居を決め込んでいた最高神が、粘土板を残した。エル神殿の扉を——僅かに開けた。
なぜ今なのか。
アシュタルの印が「選ばれし仲介者」に変化したからか。世界のバランスが崩壊し始めたからか。モトが野心を露わにし始めたからか。
あるいは——全てだ。全ての条件が揃ったから。
「天秤の前に来い」
アシュタルはもう一度、呟いた。
天秤。バアルが言った「世界の天秤が傾いている」。モトの書簡が示した「力の追加供給」。天候暴走。各地の被害。
全てが——天秤に繋がっている。
「行きます」
アシュタルが言った。
バアルとアナトが同時にアシュタルを見た。
「行って——あの方と商談します」
声が掠れていたが、震えてはいなかった。
「印を刻んだ相手と直接交渉する。世界の天秤の話をする。仲介者として。商人として」
バアルの目が——複雑な光を帯びた。止めたいのか、送り出したいのか。息子が同じ道を辿ろうとしている——いや、バアルにとってアシュタルは息子ではない。だがバアルにとってエルは父だ。父のもとへ、この人間が向かおうとしている。
「場所が分からない」
バアルが言った。
「粘土板に手がかりがあるはずです。エルは——招待状だけ送って住所を書かない神ではないでしょう」
アシュタルが粘土板を手に取った。もう一度、裏面を見た。
文字はなかった。だが——紋様があった。印と同じ系統の紋様。ペンダントの紋様に似た線。
「これは——地図ですか?」
バアルが粘土板の裏を見た。
「……ただの方角の指示だ。北。北の果て。二つの河が交わる場所」
「知っている場所ですか」
「言い伝えでは。あの方の住処は、二つの河が交わる場所にあるとされている。カナアンの北の果て。だが——行った者はいない。行き方も分からない」
「行き方は——」
アシュタルはペンダントを握った。胸に当たる銅の冷たさ。
「これが道標になるかもしれない」
バアルが頷いた。ゆっくりと。
アナトは——何も言わなかった。壁に背を預けて立ち、金色の瞳でアシュタルを見ていた。その表情を読もうとしたが——戦女神の顔は、仮面のように静かだった。
天秤の前に来い——創造神からの招待状。
商人は、応じるしかない。
帳面に書いた。
エルの粘土板——「仲介者よ。天秤の前に来い」。
所在——北の果て、二つの河が交わる場所(バアル証言)。
行き方——ペンダントが道標(推定)。
帳面を閉じた。
世界を創った存在と、商談をする。
一介の商人にとって——最大にして最後の取引が、近づいていた。




