禁忌の輪郭
エル神殿は、ウガルの北の丘にあった。
街の中心部にあるバアル神殿と違い、エル神殿は人目を避けるように丘の上に建っていた。石段が丘の麓から頂上まで続いているが、雑草に覆われて半分以上が見えなくなっている。何十年も人が通っていない証拠だ。
アシュタルは石段を登った。帳面を胸に抱えて。
子供の頃、この石段を登ろうとしたことがある。好奇心だった。閉ざされた神殿は、子供にとって冒険の対象だ。だが石段の途中で老婆に止められた。「あそこに行く者はおらん。行く理由もない」と。
今は——理由がある。
石段を登りきると、神殿の門が見えた。
石造りの門。両側に牡牛の浮き彫りがある。「牡牛エル」の象徴だ。門の上部に楔形文字が刻まれている。「全ての父、全ての始まり、全ての終わり」。
門は——閉じているはずだった。
何十年も閉じられていたはずの重い石の扉。苔と蔦が絡みつき、時間そのものが封じたような扉。
だが——僅かに、開いていた。
人一人がやっと通れるほどの隙間。指を差し込めば手のひら二つ分ほど。完全に開いているのではなく——僅かに。
アシュタルの背筋に冷たいものが走った。
これは——閉じ忘れではない。何十年も閉じていた扉が、自然に開くはずがない。苔と蔦が絡んでいる。それを押し退けて開くには——力が必要だ。人間の力か、神の力か。
隙間に目を凝らした。
暗い。だが——完全な闇ではない。奥から微かな光が漏れている。月光とも日光とも違う、淡い金色の光。
足元を見た。
石段の苔の上に——足跡があった。
人間のものではない。足跡というよりも、何かが通った痕跡だ。苔が押し潰され、蔦が避けている。避けている——押し退けられたのではなく、自ら道を開いたかのように。
アシュタルは帳面を開いた。記録する。商人の習性だ。
エル神殿——門が開いている(数センチ)。
出入りの形跡あり。苔と蔦が退いている。
内部から淡い金色の光。
帳面を閉じて、門に近づいた。
右手首の印が——微かに反応した。銀の光が点滅するように明滅した。バアルの近くでもモトの近くでもない反応。もっと——穏やかで、もっと深い反応。根源的な力に触れたときの、そういう反応。
隙間から中を覗いた。
神殿の内部は——無人だった。
石の床。石の壁。天井の一部が崩れかけている。何十年もの放置で風化が進んでいた。壁の浮き彫りは半分以上が剥がれ、かつての荘厳さは失われている。
だが——祭壇だけは違った。
神殿の奥、正面の祭壇。石の台座。その上に——粘土板が置いてあった。
新しい粘土板だ。
周囲の全てが風化し、崩れかけている中で——その粘土板だけが、焼きたてのように鮮やかだった。赤褐色の表面に、はっきりとした楔形文字が刻まれている。
アシュタルの心臓が速くなった。
これは——最近、誰かが置いたものだ。何十年も閉じていた神殿に。新しい粘土板を。
門の隙間から身体を滑り込ませた。石の扉に肩が擦れた。冷たい石。だが隙間の向こうの空気は——冷たくはなかった。温い、とも違う。何十年も閉ざされていた空間にしては——空気が生きていた。
埃の匂いと、石の匂いと——もう一つ。形容しがたい匂い。古い書庫のような。千年の知恵が凝縮されたような。
床を見た。石畳の隙間から砂が吹き込んでいる。だが——祭壇に続く中央の通路だけ、砂が薄い。誰かが歩いた跡だ。最近。ここ数日以内に。
壁の浮き彫りに目を止めた。剥がれかけた浮き彫りの中に——牡牛の姿が残っている。角を持つ牡牛。エルの象徴。その隣に、粘土板を持つ人間の姿。小さな人間が、大きな牡牛に何かを差し出している。
契約の場面だ、とアシュタルは思った。人間と神の契約。この神殿は——契約の場所だったのだ。
祭壇に近づいた。
粘土板に手を伸ばしかけて——止まった。
商人の勘だ。罠かもしれない。だが——罠にしては、あまりにも無防備だ。門は開いていた。祭壇には粘土板一枚。仕掛けも警備もない。
これは——招待だ。
深く息を吸った。覚悟を決めた。商談の席に着く前の一呼吸。商人の儀式。
手を伸ばした。粘土板を取り上げた。
軽い。物理的に軽い。だが——手に持った瞬間、印が強く反応した。銀の紋様が金色に変わった。一瞬だけ。そしてすぐに銀に戻った。指先に微かな震えが伝わった。粘土板そのものが震えているのではない。込められた力が——アシュタルの印と共鳴しているのだ。
粘土板の文字を読んだ。
読めた。普通の楔形文字ではない。粘土板の断片と同じ古い書体だ。だが——印を持つ者には読める。文字が意味を持って頭に流れ込んでくる。
一行だけだった。
たった一行。だがその一行が——全てを変えた。
帳面に書き写す手が——震えた。筆の先がぶれた。だが書いた。商人は記録する。どんな状況でも記録する。
粘土板を持って神殿を出た。門の隙間をくぐり、石段を駆け降りた。息が上がった。体力は一般人並みだ。走るのは得意ではない。だが今は——走らなければならない。
バアルのもとへ。アナトのもとへ。
あの一行を——見せなければならない。
石段を降りきったとき、空を見上げた。雲が流れていた。いつもの雲。バアルの力の残滓。だが——雲の隙間から差す光が、金色に見えた。神殿の中にあった光と同じ色。
気のせいだろうか。
手の中の粘土板が、不思議な温もりを持っていた。石のはずなのに——生きているかのように。脈打つように。
誰かが来た——あるいは、誰かが呼んでいる。
エルの神殿の扉が、開いていた。




