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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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誰のために

 父タグムの手は、大きかった。


 商人の手だ。帳面を繰り、天秤を操り、取引先の手を握る手。日に焼け、節くれ立ち、ところどころに古い傷がある。港の荷揚げを手伝った若い頃の名残だと、父は言っていた。


 その手が——銅のペンダントを差し出した。


「返しておく」


 父の声は静かだった。帳場の奥、家族しか入らない居間で、二人は向き合っていた。


「返す?」


「お前に預けたものだ。預けたときに言ったろう。『分かった時に教えてくれ』と」


 アシュタルはペンダントを受け取った。掌に収まる大きさ。銅の表面が年月で黒ずんでいるが、紋様は鮮明だ。


「分かったことが、あるんだな」


 父の目がアシュタルを見ていた。商人の目。息子を見る目ではなく——取引相手の本音を読む目。アシュタルの交渉術は、この目から学んだ。


「はい。全部ではありませんが」


「聞こう」


 アシュタルは深く息を吸った。


「このペンダントは——祖父の形見です。祖父が『約束の証』と呼んでいたと、母から聞きました」


「ああ。親父はそう言っていた。『これは約束だ。いつか、この約束を果たす者が来る』と」


「その約束は——ベン=シャハルの一族と、ある存在との間に結ばれた契約だと思います」


 父の眉が動いた。


「ある存在」


「はい。神です」


 父は黙った。長い沈黙だった。だが驚きの沈黙ではなかった。考えている沈黙。商人が情報を処理している沈黙。


「……印と関係があるのか」


「あります」


 アシュタルはペンダントを裏返した。


「見てください。裏面の、この部分」


 銅の裏面に——紋様があった。表面の装飾的な紋様とは違う、細かな線の集合。黒ずみに隠れてほとんど見えないが、爪で軽く擦ると——文字が現れた。


 印と同じ文字だった。


 右手首の布を外した。銀の円環紋様。「選ばれし仲介者」の文字。その一部と——ペンダント裏面の文字が、同じ形をしていた。


 父の顔色が変わった。


「これは——」


「同じ書体です。同じ設計思想。印を刻んだ者と、このペンダントを作った者は——同一の存在だと思います」


 父が椅子に深く座った。大きな手でペンダントを受け取り、裏面を見つめた。


「親父は——知っていたのか」


「知っていたか、知らされていたか。どちらかだと思います」


「何世代前からだ」


「分かりません。でも——この契約は、少なくとも祖父の代には存在していた。もしかしたら、もっと前から。何世代にもわたって」


 父が目を閉じた。


 大きな手がペンダントを握った。節くれ立った指が銅の縁を辿った。


「お前の印は——この契約の結果なのか」


「はい。たぶん」


「印を刻んだ者は——お前を何にしようとしている」


「仲介者です。生と死の間に立つ仲介者。——商人です、父さん。俺たちの一族は、商人として生まれるべくして生まれた」


 父がアシュタルを見た。


 商人の目ではなかった。父親の目だった。息子が神々の世界に巻き込まれていることを知りながら、止める手段を持たない父親の目。


「怒らないんですか」


 アシュタルが訊いた。


「誰に怒ればいい」


 父の声は静かだった。


「神に怒っても仕方がない。一族の運命に怒っても仕方がない。——お前が帰ってきた。弟の感覚が少し戻った。それだけで十分だ」


「父さん——」


「ただし」


 父が立ち上がった。背が高い。アシュタルは父を見上げた。


「このペンダントはお前に預ける。もう一度。今度は——使うためにだ。契約の証なら、契約相手と交渉するときに役に立つだろう」


 ペンダントを差し出された。


「商人は契約の証を持って商談に臨む。お前の祖父も、そうしたんだろう」


 アシュタルは受け取った。銅の温もりが掌に沁みた。


「父さん」


「何だ」


「ありがとうございます」


「礼を言うな。——ただ」


 父が振り返った。帳場へ戻ろうとする背中が——一瞬、止まった。


「帰ってこい。必ず」


 それだけ言って、帳場に消えた。


 アシュタルは一人、居間に残された。


 ペンダントを見つめた。銅の表面に自分の顔が歪んで映っていた。


 裏面の文字。印と同じ書体。同じ設計者の手。


 エルは——何世代も前から、この一族を見ていた。祖父に約束の証を渡し、一族の血に印を刻み、アシュタルを仲介者として設計した。


 帳面に書き加えた。


 ペンダント裏面——印と同一文字(確認済み)。

 一族とエルの関係——数世代にわたる契約(推定→ほぼ確定)。

 祖父の「約束の証」——エルとの契約の物証。


 エルへの道が——少しずつ、見えてきている。


 ペンダントを首にかけた。銅の冷たさが胸に当たった。


 祖父も——この冷たさを感じたのだろう。


 そしてアシュタルは——この冷たさを、エルの前に持っていく。


 契約の証として。交渉の札として。


 商人は取引の席に、手ぶらでは行かない。


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