二人の夕食
帳面を広げた。
アシュタルは帳場の椅子に深く座り、天井を見上げた。
整理しなければならない。全てを。商人は感情に流されない。感情に流されそうになったら帳面を開く。数字と文字に変換する。変換できるものは制御できる。制御できないものは——帳面の端に書いておく。いつか帳尻が合う日のために。
帳面の新しいページに、現状の全項目を書き出した。
一、印の問題。
「選ばれし仲介者」の文字が浮かんだ。印は捧げものではなく、役割の付与。刻印者はエル(推定確度九割)。エルの意図は不明。エルの所在は不明。
二、世界のバランス崩壊。
バアルの力が不完全。嵐の力の一部がモトの手にある。天候暴走がカナアン全域に拡大。バアルの分析では十年以内に世界が修復不能に。モトの力吸収は一年以内に完了する見込み。
三、モトの野心。
書簡による追加供給要求。契約を遵守しつつ利益最大化。嵐の力を冥界運営に応用。勢力拡大の開始。アシュタルの魂は依然として担保。
四、アナトの距離。
自覚後の逃避行動。アシュタルとの接触を減らしている。バアルも察知。禁忌の問題が個人の範囲を超えつつある。
五、声の問題。
冥界で傷めた喉の回復が不完全。声の掠れが慢性化。商人の道具の劣化。
六、一族の状態。
弟ヤリムの感覚喪失は緩和傾向だが完治していない。味覚は微かに戻りつつあるが、声は出ない。父の印は薄れたが消えていない。
全項目を見渡した。
商人の目で見れば——全てが繋がっている。
印の問題は、エルの意図に繋がる。エルの意図は、世界のバランスの設計に繋がる。世界のバランスは、バアルとモトの力関係に繋がる。モトの野心は、力関係の崩壊を加速させる。アナトの禁忌は——アナトとアシュタルの関係がバアルの力に影響する可能性を示唆する。
全ての糸が繋がっている。
だが——結び目が見えない。
帳面に書いた。
全体像は見えない。だが断片は揃いつつある。
足りないのは——中心。全てを繋ぐ中心点。
中心は——エルだ。
エルが全ての起点だ。印を刻んだのはエル。バアルとモトの対立の構図を作ったのもエル。アナトの存在もエルの子として始まっている。世界のバランスそのものが、エルの設計だ。
エルに会わなければ——何も解決しない。
だがエルの所在は分からない。バアルは「準備ができたとき、現れる」と言った。では——準備とは何か。
帳面を閉じて、立ち上がった。
窓の外は夕暮れだった。港の方角に夕日が沈みかけている。海が橙に染まっている。商人たちが店を畳み始めていた。日常の風景。
だがその日常の下に——神々の力学が蠢いている。
帳場を出て、廊下を歩いた。台所から母の料理の匂いがする。羊肉と香辛料。ウガルの家庭料理。この匂いを嗅ぐたびに——冥界で差し出した味覚の記憶を思い出す。母の料理の味を代価にした。あの記憶はもう戻らない。
それでも——匂いは残っている。記憶がなくても、匂いが身体に染みついている。
父が帳場から出てきた。息子と目が合った。
「考え事か」
「ええ」
「帳面が減りが早い。一日で十ページ使っていただろう」
「情報が多くて」
父が頷いた。何も訊かなかった。息子が背負っているものの大きさを、商人の勘で感じ取っている。だが訊かない。訊かないことが——父の信頼だった。
「飯にしよう。母さんが呼んでる」
「はい」
食卓に座った。母の料理が並んでいる。弟がいる。父がいる。母がいる。普通の夕食。普通の日常。
だがこの日常の外で——世界が軋んでいる。
「この取引はまだ終わっていない」
食後、自室で帳面を開いて呟いた。掠れた声だったが、はっきりと。
「ここからが本番だ」
百五十日の旅は、序章に過ぎなかった。バアルの帰還は、ゴールではなくスタートラインだった。
世界のバランスを正す。モトの野心を制御する。エルの意図を暴く。一族を完全に救う。
そして——アナトの問題。
帳面に書けない項目。
全てが一つの取引に収束しようとしている。人間と神の関係を——根本から組み直す取引。
商人一人で担えるものではない。だが仲介者は一人でなければならない。仲介者が複数いれば利害が衝突する。間に立つ者は、一人だけだ。
「まだ見えないものばかりだ」
帳面を胸に抱いた。
「だが——見えないものに値をつけるのが商人だ」
窓の外で、夕日が沈みきった。港に薄闇が降りてきた。最初の星が東の空に現れた。金星だ。商人の星。航海の目印。
幼い頃、父がこの星を指さして言った。「あの星は見えないものを照らす星だ。商人はあの星を頼りに、見えない港を目指す」。
見えないものを照らす星。
今、アシュタルが目指しているのも——見えない港だ。エルという名の、見えない港。
明日から——新しい手がかりを探す。エルへの道を。
帳面には未精算の項目が山のように残っている。だが商人は帳面を投げ出さない。
帳尻が合うまで——何度でも、帳面を開く。




