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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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古い名

 バアルが港まで来たのは、珍しいことだった。


 嵐の神は普段、神殿の奥間から出ない。力の制御訓練に集中しているのと、街中に出れば不安定な神力が周囲に影響するのとで、自ら行動範囲を制限していた。


 だが今日——バアルは波止場の石段に座っていた。


 アシュタルが荷の確認を終えて振り返ったとき、バアルがそこにいた。外套を被り、フードで顔を隠している。だが体格と、フードの下から覗く濃い青の瞳で分かった。


「珍しいですね。外に出るの」


「たまには風を浴びたくなる」


「嵐の神が風を浴びたいって——贅沢な話ですね」


 バアルが笑わなかった。


 アシュタルの商人の勘が反応した。今日のバアルは——何かを言いに来ている。雑談ではない。


「座れ」


「はい」


 波止場の石段に並んで座った。港の風が潮の匂いを運んでくる。遠くの海に漁船の群れが見える。今日は穏やかな海だ。


「アナトのことだ」


 バアルが単刀直入に言った。


 アシュタルの手が、膝の上で止まった。


「何か——ありましたか」


「お前に近づきすぎるな」


 風の音が一瞬、止まった気がした。


 バアルの声は低く、静かだった。怒りではない。命令でもない。忠告だ。兄としての、そして嵐の神としての忠告。


「アナトに、ですか。それとも俺に」


「両方だ」


 バアルがフードを少し上げた。横顔が見えた。帰還して一月余り。痩せていた頬には肉が戻りつつあったが、目の下の隈は消えていない。嵐の制御に神力を使い続けている疲労だ。


「アナトが——変わったことに、気づいているか」


「……気づいています」


 嘘はつかなかった。商人は取引相手に嘘をつくことがあるが、バアルに嘘をつく意味はない。見抜かれる。


「アナトが距離を取り始めたことにも」


「ええ」


「なぜ距離を取っているか、分かるか」


「……推測はしています」


 バアルが海を見た。青い瞳が水平線を追っていた。


「俺はアナトの兄だ。何千年も、あいつの隣にいた。あいつの変化は——俺が最もよく分かる」


 風が吹いた。バアルの外套の裾がはためいた。


「アナトは——お前に情を移している」


 その言葉は、波止場の石段に静かに落ちた。


 アシュタルは——否定しなかった。否定する言葉が出なかった。


 知っていたからだ。推測ではなく——もう、確信に近い何かとして。


「禁忌だ」


 バアルの声が低くなった。


「神が人間に真の情を向ければ——神力が人間に流れ込む。人間の器はそれに耐えられない。焼かれる。あるいは——神の側が秩序を歪める。感情が力に影響し、力が世界に影響する」


「バアルがそれを教えてくれたのは——」


「アナトに聞かれたからだ。あいつが俺に訊いてきた。『人間に情を移すとどうなる』と」


 アシュタルの胸の奥が——軋んだ。


 アナトがバアルにそう訊いたということは——アナト自身が、自分の感情に気づきかけているということだ。気づきかけて、怖くなって、バアルに確認した。「これは禁忌なのか」と。


 そしてバアルは「禁忌だ」と答えた。


 だからアナトは距離を取り始めた。


「お前に近づきすぎるな、と俺は言った。だが——これは命令ではない」


 バアルが振り返った。嵐の神の目が、アシュタルを真っ直ぐに見た。


「忠告だ。兄として。そして——お前を死なせたくない者として」


「死なせたくない」


「お前は仲介者だ。世界の天秤を正す鍵だ。だが——それ以前に、お前はアナトの隣で笑う人間だ。あいつがお前を壊すのは——俺も見たくない」


 バアルの声に、感情があった。嵐の神が見せる、不器用な優しさ。


 アシュタルは長い間、海を見つめていた。


 何かを言おうとした。商人の口は軽い。いつもなら、軽口の一つや二つ返せる。だが——今は、言葉が出なかった。


 言いかけた。「俺は大丈夫です」と。だがそれは嘘だ。大丈夫かどうかは分からない。印が「選ばれし仲介者」に変化したことで、アナトの神力が印に反応したことで——何が起きるかは、誰にも分からない。


 言いかけた。「アナトの気持ちは関係ない」と。だがそれも嘘だ。関係ないはずがない。


 結局——何も言えなかった。


 沈黙が波止場に落ちた。潮風が二人の間を吹き抜けた。


「……分かりました」


 アシュタルがやっと言った。


「何が分かった」


「バアルが心配してくれていることが」


「心配などしていない。忠告だ」


「はい。忠告として受け取ります」


 立ち上がった。帳面を持って。


「でも——一つだけ」


「何だ」


「近づいたのは——どちらが先だったんですかね」


 バアルが目を見開いた。


 アシュタルは小さく笑った。自嘲とも苦笑ともつかない笑みだった。


「すみません。商人の癖で——取引の始まりを確認したくなるんです。どちらが先に声をかけたか。どちらが先にテーブルについたか。——でも、今はどうでもいいですね」


 波止場を離れた。


 背中にバアルの視線を感じた。嵐の神の真剣な目。


 帰り道、アシュタルは自分の胸に手を当てた。印は静かだった。光っていない。


 だが胸の奥では——帳面に書けない何かが、静かに脈打っていた。


 近づきすぎるな。


 バアルの忠告は正しいのだろう。


 だが——近づいたのは、どちらが先だったか。


 答えは——もう、分からなくなっていた。


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