表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
213/241

バアルの見立て

 アナトの距離が変わった。


 それは物理的な距離だった。以前は——いつの間にか隣にいた。屋上でも、帳場の近くでも、市場への道すがらでも。戦女神の足音は聞こえないが、気配はあった。近くにいるという確かな気配。


 それが、消えた。


 ここ数日、アナトがアシュタルの視界に入る頻度が明らかに減っていた。食事の席にも来ない。屋上にもいない。いや——いるのだろうが、アシュタルがいるときを避けている。


 商人の目がそれを数字で捉えていた。


 三日前——会話の回数、七回。話した合計時間、おおよそ三十分。

 二日前——会話の回数、三回。合計時間、十分未満。

 昨日——会話の回数、一回。「おはよう」に対して頷きだけ。


 減少率が著しい。


 帳面には書かなかった。アナトとの会話回数を帳面に記録するのは——何か、間違っている気がした。商取引の分析ではない。人間関係の変化だ。帳面に書く種類のものではない。


 だが気づいている。


 アナトは距離を取り始めている。意図的に。


 理由は——分からないわけではなかった。


 印の変化があった夜。アナトがアシュタルの腕を掴んだとき、印が反応した。銀の光が赤みを帯び、アナトの腕の戦の紋様と連動した。あの瞬間——アナトの顔に浮かんだ表情を、アシュタルは見た。


 恐怖だった。


 戦争の女神が、恐怖を見せた。


 何千年も戦場を駆け、血に膝まで浸かり、敵を屠ってきた存在が——アシュタルの腕に触れたことで、恐怖した。


 禁忌の定義をバアルが語った夜を思い出した。「人間に情を移すとどうなるか」。神力が人間に流れ込み、人間の肉体を蝕む。あるいは——神が秩序を歪める。


 アナトは——その線上に立っているのだ。


 そして気づいたのだろう。自分がその線上にいることに。


 だから距離を取っている。離れようとしている。


 商人の頭はそこまで分析していた。だが——分析したところで、対処法が分からなかった。


 アシュタルにできることは待つことだけだった。商人は相手の準備ができるまで値を言わない。


 午後、帳場で仕事をしていると、弟のヤリムが来た。


 ヤリムは椅子に座り、帳面を覗き込んだ。声は出せない。感覚喪失の影響で声帯が機能しなくなっている。だが口の動きで会話する術を身につけていた。読唇だ。アシュタルはヤリムの口の形を読むのが上手くなった。


 ヤリムの口が動いた。


「姉ちゃん、来ないね」


 ヤリムはアナトのことを「姉ちゃん」と呼んでいた。正確には「赤い髪の姉ちゃん」だが、最近は省略している。神であることを知っているのに。子供の率直さだ。


「忙しいんだろ」


「嘘つき」


 ヤリムの口が動いた。声は出ないが、表情は雄弁だった。兄の嘘を見抜く弟の目。


「兄ちゃんと姉ちゃん、喧嘩した?」


「してない」


「じゃあなんで来ないの」


 答えに詰まった。十四歳の弟に説明できる話ではない。戦争の女神が禁忌を恐れて距離を取っている——などと言っても意味不明だろう。


「大人の事情だ」


 ヤリムが頬を膨らませた。納得していない顔だ。


「兄ちゃんが悪いんでしょ」


「なんで俺が悪いことになるんだ」


「兄ちゃんはいつも自分のせいじゃないって言う。でもだいたい兄ちゃんのせい」


 否定しきれなかった。


 ヤリムが立ち上がった。出口で振り返り、口を動かした。


「姉ちゃんに、夕飯一緒に食べようって言って」


 それだけ言って——言って、ではなく、口を動かして——去っていった。


 一人になった帳場で、アシュタルは椅子に座ったまま天井を見上げた。


 弟に言われるまでもない。アナトに声をかけたい。「距離を取らなくていい」と言いたい。だが——それを言う権利がアシュタルにあるのか分からなかった。


 アナトが距離を取る理由が禁忌への恐れだとすれば、距離を取ることは正しい判断だ。神が人間に近づきすぎれば、人間が壊れる。アナトはアシュタルを壊したくないから離れている。


 それは——守るための拒絶だ。


 商人の頭はそう分析する。だが商人の胸は——分析では割り切れない何かを感じていた。


 夕方、市場から帰る途中、遠くの屋根の上にアナトの姿を見た。


 赤い髪が夕日に揺れていた。こちらを見ていない。海の方を向いている。いつもの「風が気持ちいいだけだ」の姿勢。


 だが——足音を立てたとき、アナトの肩が動いた。微かに。気づいている。


 そしてアシュタルが近づく前に、屋根の向こう側に消えた。


 離れていく。


 商人には追えない速さで。戦女神には追いつけない。


 帰宅して、一人で夕食を作った。弟と父と母と四人で食べた。ヤリムが空いている席を見て、頬を膨らませた。


 アシュタルは何も言えなかった。


 夜、帳面を開いた。


 印の問題。世界のバランス。モトの野心。エルの意図。


 全て重要な項目だ。全て精算しなければならない。


 だが帳面の端に——帳面に書けない項目が一つ、増えていた。


 アナトの距離。


 それは帳面には載せられない。だが——帳面より重い。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ