バアルの見立て
アナトの距離が変わった。
それは物理的な距離だった。以前は——いつの間にか隣にいた。屋上でも、帳場の近くでも、市場への道すがらでも。戦女神の足音は聞こえないが、気配はあった。近くにいるという確かな気配。
それが、消えた。
ここ数日、アナトがアシュタルの視界に入る頻度が明らかに減っていた。食事の席にも来ない。屋上にもいない。いや——いるのだろうが、アシュタルがいるときを避けている。
商人の目がそれを数字で捉えていた。
三日前——会話の回数、七回。話した合計時間、おおよそ三十分。
二日前——会話の回数、三回。合計時間、十分未満。
昨日——会話の回数、一回。「おはよう」に対して頷きだけ。
減少率が著しい。
帳面には書かなかった。アナトとの会話回数を帳面に記録するのは——何か、間違っている気がした。商取引の分析ではない。人間関係の変化だ。帳面に書く種類のものではない。
だが気づいている。
アナトは距離を取り始めている。意図的に。
理由は——分からないわけではなかった。
印の変化があった夜。アナトがアシュタルの腕を掴んだとき、印が反応した。銀の光が赤みを帯び、アナトの腕の戦の紋様と連動した。あの瞬間——アナトの顔に浮かんだ表情を、アシュタルは見た。
恐怖だった。
戦争の女神が、恐怖を見せた。
何千年も戦場を駆け、血に膝まで浸かり、敵を屠ってきた存在が——アシュタルの腕に触れたことで、恐怖した。
禁忌の定義をバアルが語った夜を思い出した。「人間に情を移すとどうなるか」。神力が人間に流れ込み、人間の肉体を蝕む。あるいは——神が秩序を歪める。
アナトは——その線上に立っているのだ。
そして気づいたのだろう。自分がその線上にいることに。
だから距離を取っている。離れようとしている。
商人の頭はそこまで分析していた。だが——分析したところで、対処法が分からなかった。
アシュタルにできることは待つことだけだった。商人は相手の準備ができるまで値を言わない。
午後、帳場で仕事をしていると、弟のヤリムが来た。
ヤリムは椅子に座り、帳面を覗き込んだ。声は出せない。感覚喪失の影響で声帯が機能しなくなっている。だが口の動きで会話する術を身につけていた。読唇だ。アシュタルはヤリムの口の形を読むのが上手くなった。
ヤリムの口が動いた。
「姉ちゃん、来ないね」
ヤリムはアナトのことを「姉ちゃん」と呼んでいた。正確には「赤い髪の姉ちゃん」だが、最近は省略している。神であることを知っているのに。子供の率直さだ。
「忙しいんだろ」
「嘘つき」
ヤリムの口が動いた。声は出ないが、表情は雄弁だった。兄の嘘を見抜く弟の目。
「兄ちゃんと姉ちゃん、喧嘩した?」
「してない」
「じゃあなんで来ないの」
答えに詰まった。十四歳の弟に説明できる話ではない。戦争の女神が禁忌を恐れて距離を取っている——などと言っても意味不明だろう。
「大人の事情だ」
ヤリムが頬を膨らませた。納得していない顔だ。
「兄ちゃんが悪いんでしょ」
「なんで俺が悪いことになるんだ」
「兄ちゃんはいつも自分のせいじゃないって言う。でもだいたい兄ちゃんのせい」
否定しきれなかった。
ヤリムが立ち上がった。出口で振り返り、口を動かした。
「姉ちゃんに、夕飯一緒に食べようって言って」
それだけ言って——言って、ではなく、口を動かして——去っていった。
一人になった帳場で、アシュタルは椅子に座ったまま天井を見上げた。
弟に言われるまでもない。アナトに声をかけたい。「距離を取らなくていい」と言いたい。だが——それを言う権利がアシュタルにあるのか分からなかった。
アナトが距離を取る理由が禁忌への恐れだとすれば、距離を取ることは正しい判断だ。神が人間に近づきすぎれば、人間が壊れる。アナトはアシュタルを壊したくないから離れている。
それは——守るための拒絶だ。
商人の頭はそう分析する。だが商人の胸は——分析では割り切れない何かを感じていた。
夕方、市場から帰る途中、遠くの屋根の上にアナトの姿を見た。
赤い髪が夕日に揺れていた。こちらを見ていない。海の方を向いている。いつもの「風が気持ちいいだけだ」の姿勢。
だが——足音を立てたとき、アナトの肩が動いた。微かに。気づいている。
そしてアシュタルが近づく前に、屋根の向こう側に消えた。
離れていく。
商人には追えない速さで。戦女神には追いつけない。
帰宅して、一人で夕食を作った。弟と父と母と四人で食べた。ヤリムが空いている席を見て、頬を膨らませた。
アシュタルは何も言えなかった。
夜、帳面を開いた。
印の問題。世界のバランス。モトの野心。エルの意図。
全て重要な項目だ。全て精算しなければならない。
だが帳面の端に——帳面に書けない項目が一つ、増えていた。
アナトの距離。
それは帳面には載せられない。だが——帳面より重い。




