表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
212/240

女神の居場所

 粘土板は、港の倉庫番が持ってきた。


「アシュタル坊、これ。あんた宛だ」


 老いた倉庫番の手に、小ぶりの粘土板があった。焼き締められた赤褐色の板に、楔形文字がびっしりと刻まれている。


「どこから?」


「南の商船に紛れてた。荷物の間に挟まってたんだと。宛名はお前さんだ。差出人は——」


 倉庫番が顔をしかめた。


「分からん。文字が古すぎる」


 アシュタルは粘土板を受け取った。手のひらに乗る大きさ。だが——重かった。物理的な重さではない。込められた力の重さ。印が微かに反応した。右手首の銀の紋様が一瞬だけ光った。


 帳場に持ち帰って、じっくりと文字を読んだ。


 楔形文字の古い書体。通常の取引文書や行政文書とは違う形式だった。格式が高い。命令文ではなく——だが丁寧語でもない。対等な者に対する書簡の形式。


 差出人の名は最後に書いてあった。


 モト。


 背筋に冷たいものが走った。


 冥界の商談を思い出した。死の神の玉座。灰色の世界。魂を担保にした取引。あの時のモトの声が蘇る。低く、穏やかで、丁重で——その全てが脅威だった。


 粘土板の内容を読んだ。一字一句、帳面に書き写しながら。


「契約は順守している」


 それが書き出しだった。


 バアルの帰還に伴う契約。嵐の力の一部を冥界に残す。モトはバアルの帰還を妨げない。互いの領域を侵さない。アシュタルの魂は担保として据え置き。


「契約の全条項を確認し、いずれも遵守していることを報告する。冥界は契約に基づき嵐の力の管理を行っている」


 ここまでは——形式的な報告だ。取引先への定期連絡。商人なら誰でもやることだ。だが次の一文で、アシュタルの目が細まった。


「しかしながら、嵐の力は予想を超えて素晴らしい。この力の有用性は当初の見積もりを大幅に上回る。追加の供給について協議を求める」


 追加の供給。


 つまり——もっとよこせ。


「嵐の力を冥界の運営に応用する研究を開始した。死の管理に嵐の循環力を組み込むことで、冥界の効率は飛躍的に向上する。この成果は地上にも利益をもたらすだろう。詳細な提案書を用意する用意がある」


 帳面から顔を上げた。


 契約を守りつつ利益を最大化しようとしている。モトらしい。死の神は正直だ。嘘はつかない。だが——真実の使い方が狡猾だ。


 契約を破っていない。その点では正しい。だが契約の範囲内で、嵐の力を最大限に利用しようとしている。そして追加の力を要求している。


「追加の供給」に応じればどうなるか。バアルの力が更に削られる。天候の制御がますます不安定になる。世界の天秤が死の側に傾く。


 応じなければ——モトは契約を盾に現状維持を主張するだろう。現状維持でも、嵐の力の吸収は進む。時間はモトの味方だ。


「やりおる」


 アシュタルは呟いた。掠れた声だったが、感心と警戒が混じっていた。


 モトは——待っていたのだ。バアルが帰還し、世界が不安定になり、アシュタルたちが焦り始めるのを。契約は守っている。だが契約の範囲内で、着実に勢力を拡大している。


 粘土板の最後の一文。


「印持ちの仲介者よ。お前の魂はまだ私の手の中にある。忘れてはいまいな」


 脅しではなかった。事実の確認だ。だからこそ——重い。


 帳面に書き加えた。


 モトの動き——

 1. 契約を遵守しつつ嵐の力を利用

 2. 力の追加供給を要求

 3. 冥界の効率化を名目に勢力拡大

 4. 魂の担保を再確認(圧力)


 バアルに見せなければならない。アナトにも。


 だがその前に——アシュタル自身の分析を固める必要があった。


 モトの書簡は、表面的には取引先からの業務連絡だ。だが商人の目で読めば、これは宣戦布告に等しい。「私は契約の範囲内で最大限の利益を得る。お前たちに止める手段はない」という宣言だ。


 そしてモトは正しい。契約を守っている以上、アシュタルたちに止める手段はない。力ずくなら——バアルは今の状態でモトに勝てない。交渉なら——モトは現行の契約で十分に利益を得ている。新しい交渉に応じる理由がない。


 詰んでいる。


 いや——詰んでいるように見えている。


 商人は「詰み」を信じない。詰んでいるように見える状況には、必ず見落としている手がある。帳簿の隅に、計上し忘れた項目がある。それを見つけるのが商人の仕事だ。


 帳面を閉じた。


「モトが動き出した」


 声に出して言った。掠れていたが——覚悟の込もった声だった。


「契約の範囲内で、最大限の利益を搾り取ろうとしている」


 窓の外を見た。ウガルの港。穏やかな午後の光。だがその穏やかさの下で——死の神が、静かに力を蓄えている。


 世界の天秤は、確実に傾きつつあった。


 そしてアシュタルの帳面には——まだ見つかっていない手が、余白として残されていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ