女神の居場所
粘土板は、港の倉庫番が持ってきた。
「アシュタル坊、これ。あんた宛だ」
老いた倉庫番の手に、小ぶりの粘土板があった。焼き締められた赤褐色の板に、楔形文字がびっしりと刻まれている。
「どこから?」
「南の商船に紛れてた。荷物の間に挟まってたんだと。宛名はお前さんだ。差出人は——」
倉庫番が顔をしかめた。
「分からん。文字が古すぎる」
アシュタルは粘土板を受け取った。手のひらに乗る大きさ。だが——重かった。物理的な重さではない。込められた力の重さ。印が微かに反応した。右手首の銀の紋様が一瞬だけ光った。
帳場に持ち帰って、じっくりと文字を読んだ。
楔形文字の古い書体。通常の取引文書や行政文書とは違う形式だった。格式が高い。命令文ではなく——だが丁寧語でもない。対等な者に対する書簡の形式。
差出人の名は最後に書いてあった。
モト。
背筋に冷たいものが走った。
冥界の商談を思い出した。死の神の玉座。灰色の世界。魂を担保にした取引。あの時のモトの声が蘇る。低く、穏やかで、丁重で——その全てが脅威だった。
粘土板の内容を読んだ。一字一句、帳面に書き写しながら。
「契約は順守している」
それが書き出しだった。
バアルの帰還に伴う契約。嵐の力の一部を冥界に残す。モトはバアルの帰還を妨げない。互いの領域を侵さない。アシュタルの魂は担保として据え置き。
「契約の全条項を確認し、いずれも遵守していることを報告する。冥界は契約に基づき嵐の力の管理を行っている」
ここまでは——形式的な報告だ。取引先への定期連絡。商人なら誰でもやることだ。だが次の一文で、アシュタルの目が細まった。
「しかしながら、嵐の力は予想を超えて素晴らしい。この力の有用性は当初の見積もりを大幅に上回る。追加の供給について協議を求める」
追加の供給。
つまり——もっとよこせ。
「嵐の力を冥界の運営に応用する研究を開始した。死の管理に嵐の循環力を組み込むことで、冥界の効率は飛躍的に向上する。この成果は地上にも利益をもたらすだろう。詳細な提案書を用意する用意がある」
帳面から顔を上げた。
契約を守りつつ利益を最大化しようとしている。モトらしい。死の神は正直だ。嘘はつかない。だが——真実の使い方が狡猾だ。
契約を破っていない。その点では正しい。だが契約の範囲内で、嵐の力を最大限に利用しようとしている。そして追加の力を要求している。
「追加の供給」に応じればどうなるか。バアルの力が更に削られる。天候の制御がますます不安定になる。世界の天秤が死の側に傾く。
応じなければ——モトは契約を盾に現状維持を主張するだろう。現状維持でも、嵐の力の吸収は進む。時間はモトの味方だ。
「やりおる」
アシュタルは呟いた。掠れた声だったが、感心と警戒が混じっていた。
モトは——待っていたのだ。バアルが帰還し、世界が不安定になり、アシュタルたちが焦り始めるのを。契約は守っている。だが契約の範囲内で、着実に勢力を拡大している。
粘土板の最後の一文。
「印持ちの仲介者よ。お前の魂はまだ私の手の中にある。忘れてはいまいな」
脅しではなかった。事実の確認だ。だからこそ——重い。
帳面に書き加えた。
モトの動き——
1. 契約を遵守しつつ嵐の力を利用
2. 力の追加供給を要求
3. 冥界の効率化を名目に勢力拡大
4. 魂の担保を再確認(圧力)
バアルに見せなければならない。アナトにも。
だがその前に——アシュタル自身の分析を固める必要があった。
モトの書簡は、表面的には取引先からの業務連絡だ。だが商人の目で読めば、これは宣戦布告に等しい。「私は契約の範囲内で最大限の利益を得る。お前たちに止める手段はない」という宣言だ。
そしてモトは正しい。契約を守っている以上、アシュタルたちに止める手段はない。力ずくなら——バアルは今の状態でモトに勝てない。交渉なら——モトは現行の契約で十分に利益を得ている。新しい交渉に応じる理由がない。
詰んでいる。
いや——詰んでいるように見えている。
商人は「詰み」を信じない。詰んでいるように見える状況には、必ず見落としている手がある。帳簿の隅に、計上し忘れた項目がある。それを見つけるのが商人の仕事だ。
帳面を閉じた。
「モトが動き出した」
声に出して言った。掠れていたが——覚悟の込もった声だった。
「契約の範囲内で、最大限の利益を搾り取ろうとしている」
窓の外を見た。ウガルの港。穏やかな午後の光。だがその穏やかさの下で——死の神が、静かに力を蓄えている。
世界の天秤は、確実に傾きつつあった。
そしてアシュタルの帳面には——まだ見つかっていない手が、余白として残されていた。




