仮の平穏
バアルの分析は、アシュタルが思っていたよりも深刻だった。
神殿の奥間。天窓からの光が石の壁を白く染めていた。バアルは床に座り、両掌を膝の上に置いていた。いつもの制御訓練の姿勢だが——今日は力を出していなかった。
「言いにくいことを言う」
バアルが切り出した。
「どうぞ」
「このまま放置すれば、カナアンは十年もたない」
アシュタルの手が止まった。帳面に筆を走らせていた手が。
「十年」
「天候の暴走は加速する。俺の力は回復しない。冥界に残した部分は戻らない。あれは——冥界の代価だ。冥界に長く留まりすぎた神は、一部が冥界に留まり続ける。回復不能だ」
「回復不能」
その言葉は重かった。バアルの力は永久に全盛期に戻らない。つまり天候の完全な制御は不可能。つまり——世界の天秤は、今のまま傾き続ける。
「加えて——モトが嵐の力を吸収しつつある」
「吸収?」
「冥界に残した力は、俺のものだが——冥界にある限り、モトの影響を受ける。モトが力を取り込めば、嵐の力が死の領域に統合される。そうなれば——嵐を呼ぶのは俺ではなく、モトになる」
アシュタルは帳面に書いた。
最悪シナリオ——モトが嵐の力を完全吸収。天候制御権がモトへ移行。バアルは嵐の神としての機能を喪失。世界の天秤が生→死に完全に傾く。
「そうなったら——」
「死が増える。作物が枯れ、海が荒れ、人間は飢え、病にかかる。死者が増えればモトの力が増す。力が増せば更に嵐を制御し——循環する。死の螺旋だ」
バアルの声は静かだった。感情を押し殺している。嵐の神が自分の無力を語るのは、どれほどの屈辱だろう。
「このままでは世界が不安定になる——ではなかった。もう不安定になっている。俺たちが目にしている天候の異変は、始まりに過ぎない」
「つまり——バアルの帰還は解決ではなく、新たな問題の始まりだった」
「……そうだ」
バアルが目を閉じた。
長い沈黙があった。
アシュタルは帳面を見つめた。数字と文字が並んでいる。商人の記録。だが——この帳面に書かれている内容は、商取引の記録ではない。世界の崩壊のカウントダウンだ。
「一つ確認させてください」
「何だ」
「モトが嵐の力を完全に吸収するまで、どのくらいの時間が?」
「正確には分からない。だが——一年はないだろう」
「一年以内に手を打たなければ手遅れになる」
「そうだ」
帳面に書き加えた。期限——一年以内(推定)。
百五十日の旅には期限があった。弟の感覚喪失が不可逆になるまでの期限。今度はもっと大きな期限だ。世界が修復不能になるまでの期限。
スケールが違う。だが本質は同じだ。期限がある。期限があるなら——値がつけられる。商人は期限のあるものに値をつける。
「でも——方法はあるんですよね」
アシュタルが訊いた。
バアルが目を開けた。青い瞳がアシュタルを見た。
「なぜそう思う」
「あなたの顔に絶望がないからです。深刻ではある。苦い。でも——諦めてはいない」
商人の目だ。取引相手の表情を読む。バアルの顔には苦悩がある。だが——諦めた者の顔ではない。まだ手がある、と知っている者の顔だ。
バアルが微かに笑った。嵐の神の笑みは、雷鳴の前の一瞬の静寂に似ていた。
「方法は——一つだけ、ある。理論上は」
「聞かせてください」
「天秤を正すには、力を再統合する必要がある。分割された嵐の力を一つに戻す。だが——力ずくでは無理だ。モトが吸収した力を奪い返せば、冥界が崩壊する。冥界が崩壊すれば——死の管理者がいなくなる。それはそれで世界が壊れる」
「つまり、モトを倒しても解決にはならない」
「ああ。だから——交渉が必要だ」
バアルが真っ直ぐにアシュタルを見た。
「モトと。そして——あの方と」
エルの名は出さなかった。だが指し示す先は明らかだった。
「交渉——俺の仕事ですね」
「……お前がそう言うと分かっていた」
「商人ですから」
帳面を閉じた。
神殿を出ると、空が暗くなっていた。雨雲だ。西の海から、黒い雲が押し寄せている。バアルの力の暴走ではない。自然の雲だ。だが——自然の雲と暴走の雲の区別がつかなくなっている。それ自体が、世界の不安定さを示していた。
通りを歩きながら、アシュタルは考えた。
世界の天秤。生と死のバランス。バアルとモトの力の再配分。
一介の商人が担うには大きすぎる取引だ。だが——仲介者は、大きさに怯まない。大きな取引ほど、利幅が大きい。
問題は利幅ではないが——商人はそう考えることで、恐怖を制御する。恐怖は経費だ。払えるうちは払う。
帰宅すると、弟のヤリムが玄関で待っていた。口の形が動いた。
「雨、降るよ」
「ああ。降りそうだな」
「兄ちゃん、また出かけるの?」
アシュタルは言葉に詰まった。弟の目。声が出なくても、目は全てを語る。兄がまた遠くに行こうとしていることを、この十四歳の少年は感じ取っている。
「まだ決まってない」
嘘だった。もう決まっている。バアルとの対話で——行かなければならないことは確定した。だが弟には、まだ言えない。
ヤリムが頷いた。信じていない顔だった。
部屋に戻り、帳面を開いた。
「十年」
口の中で呟いた。
「十年以内に世界が壊れる。一年以内にモトが嵐の力を吸収する。——高くつく取引だ」
帳面に書き加えた。
期限——一年以内。
手段——交渉(力では解決不能)。
交渉相手——モト、エル。
仲介者——アシュタル(自分)。
全てが自分の肩にかかっている。重い。だが——重い荷は、商人の得意分野だ。重い荷ほど運賃が高い。
窓の外で、雨が降り始めた。静かな雨だった。嵐ではない。ただの雨。
だがこの雨がいつ嵐に変わるか——もう誰にも分からない。
高くつく取引だ。だが高くつく取引ほど——やりがいがある。
商人の血が、静かに騒いでいた。




