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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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消えない印

 商人仲間の報告が、帳場に積み上がっていった。


 ウガルは港湾都市だ。海路で繋がる諸国からの情報が、船と共に入ってくる。商人は品物だけでなく情報も運ぶ。金の流れを追えば世界が見える——それが父タグムの教えだった。


 アシュタルは帳面を広げて、各地から届いた報告を整理した。


 北の穀倉地帯。季節外れの大雨が三日間続き、刈り入れ前の麦が全滅した村がある。一方で隣村では日照りが続き、井戸が枯れた。同じ地域で真逆の天候。あり得ない。


 南の砂漠の交易路。砂嵐の頻度が三倍に増えた。商隊が二つ、行方不明になった。元盗賊の情報屋がアシュタルに宛てた伝言——「砂漠が怒っている。この道は長くは持たない」。


 東の山岳地帯。雪が降った。夏に。標高の低い場所にまで雪が降りてきて、牧草地が凍りついた。遊牧民が家畜を連れて低地に逃れてきているが、低地には低地の問題がある。


 西の海。ヤムの領域だ。ヤムが「中立」を保っているおかげで海路は比較的安定しているが、それでも高波の日が増えた。港の船着き場が三つ、波に持っていかれた。


 帳面に書き加えた。


 天候異変——カナアン全域に拡大。局所的・矛盾的(同地域で正反対の現象)。頻度と深刻度が増大傾向。


 これは——ウガル周辺だけの問題ではなくなっている。


 アシュタルは帳面を閉じて、窓の外を見た。今日のウガルは晴れていた。だがその晴天も、いつまで続くか分からない。昨日は午後から突然の雷雨があり、港の荷揚げ作業が中断された。一昨日は朝霧が異様に濃く、昼過ぎまで視界がなかった。


 バアルの力が不安定なのだ。


 帰還した嵐の神は力の制御に苦しんでいる。全盛期の三割程度の力。しかも冥界に力の一部を残してきた。モトとの取引の代価だ。残された力で天候を制御しようとしているが、制御しきれない。嵐の神の力が暴走すれば、天候が狂う。カナアン全域の天候が。


 それだけではない。


 モトが嵐の力の一部を得たことで、生と死のバランスが崩れつつある。バアルの力——生の力、成長の力、循環の力——の一部がモトの手にある。死の領域に生の力が流れ込んでいる。あるいは、生の領域から死の力が滲み出している。


 結果として——世界が不安定になっている。


「天秤が傾いている」


 バアルがそう言ったのは、昨日の夕方だった。


 神殿の奥間で、アシュタルはバアルの分析を聞いた。


「俺の力の一部がモトにある。それ自体は契約の通りだ。だが——力は所有者を選ぶ。嵐の力は嵐の神のものだ。モトの手に渡った力は、モトに馴染まない。馴染まない力が冥界で暴れている。冥界が揺れれば、地上も揺れる」


「つまり——バアルの帰還が原因で、世界が不安定になっている」


「言い方を選べ」


 バアルの目が細まった。だが否定はしなかった。


「帰還したことが悪いのではない。帰還の条件——力を分割したことが問題だ。嵐の力は分割されるべきものではなかった」


「でも、分割しなければバアルは帰還できなかった」


「ああ。だからこれは——解のない問題だ」


「解のない問題はありません」


 アシュタルが即座に返した。


「ないのは解じゃなくて、情報です。情報が足りないから解が見えない。全ての条件が揃えば——帳尻は合う。必ず」


 バアルが微かに笑った。疲れた笑みだった。


「お前の楽観は——時々、眩しいな」


「楽観じゃなくて計算です。商人は計算する生き物ですから」


 帳場に戻ったアシュタルは、バアルの分析を帳面に書き加えた。


 世界の不安定——原因。

 1. バアルの力の分割(嵐の力の一部がモトに)

 2. 力の不適合(嵐の力は冥界に馴染まない)

 3. 生と死のバランス崩壊(生の力が死の領域に流入)

 4. バアルの制御不能(残った力の制御が不安定)

 5. 結果として——天候暴走がカナアン全域に波及


 帳面の余白に書いた。


 このままでは——カナアンが壊れる。


 大袈裟ではない。各地の報告を足し合わせれば、被害は加速度的に増大している。穀倉地帯の麦が全滅すれば飢饉が来る。交易路が途絶えれば経済が止まる。港が壊れれば船が出せない。


 神々の問題が、人間の暮らしを壊している。


 そして——解決には、世界のバランスを元に戻す必要がある。バアルの力を取り戻すか、モトの手にある力を無力化するか、あるいは——新しいバランスを作るか。


 仲介者として。


 アシュタルは右手首を見た。「選ばれし仲介者」の紋様が、静かに銀色を帯びている。


 生と死の間に立つ者。


 世界の天秤を、傾いたまま放置することはできない。だが天秤を正す力は、アシュタルにはない。力ではなく——言葉で。取引で。交渉で。


 天秤を正す方法があるとすれば、それは力の再配分だ。モトの手にあるバアルの力を取り戻す。あるいは——新しい取引で、双方が納得する形で力を分かち合う。


 そのためには、モトとも、バアルとも、そしてエルとも——交渉しなければならない。


 帳面を閉じた。


「大きな取引になる」


 独り言が掠れた声で漏れた。


 世界のバランスを取り戻す取引。神々の力を再配分する商談。一介の商人が手がける仕事ではない。


 だが——仲介者は、対等でない者同士を結びつけるのが仕事だ。大きさは関係ない。


 商人は帳簿を忘れない。


 そして商人は——帳簿に載せた項目を、必ず精算する。


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