百五十日目
仲介者。
アシュタルは帳場に座り、その言葉の意味を噛み砕いていた。
印の変化から一日が経っていた。右手首の紋様は安定し、痛みは完全に消えた。新しい文字——「選ばれし仲介者」——は銀の光を失い、紋様の一部として定着している。まるで最初からそこにあったかのように。
帳面を開いた。新しいページに「仲介者の意味」と書いた。
商人にとって、仲介者という言葉は馴染み深い。ベン=シャハル商会は代々、仲介を生業としてきた。産地から消費地へ。売り手から買い手へ。双方の需要と供給を見極め、適切な値で結びつける。それが仲介者の仕事だ。
父タグムがよく言っていた。「仲介者は売り手でも買い手でもない。だからこそ、両方の言い分が聞ける。両方に立てない者は、間に立てない」
両方に立てない者は、間に立てない。
生と死の間に立つ仲介者。
つまり——生にも死にも、片足を置いている者。
アシュタルは自分の右手首を見た。銀の紋様。これは——バアルの嵐の力にも、モトの冥界の力にも反応する印だ。どちらの陣営にも属さない。だがどちらにも接続できる。
まさに仲介者の条件だ。
「面白いな」
声に出して呟いた。掠れた声。だが帳場には誰もいない。
エルは——商人を選んだのだ。
武力で神々を従える戦士ではなく。神力で世界を動かす神ではなく。言葉で取引を成立させる商人を。
偶然ではないのだろう。バアルが言った。「印の設計は精緻で美しい」。何世代もかけて計画された設計の中で、アシュタルという人間が——商人の家に生まれ、交渉の術を身につけ、口で神々を相手にする度胸を持った人間が——仲介者として「設計」された。
背筋が寒くなった。
同時に——腹が立った。
設計された、という言葉には、自分の意志がない。自分の選択がない。全てが誰かの計画の通りだったとしたら——冥界での恐怖も、モトとの命懸けの商談も、バアルを連れ戻した達成感も——全て、エルの掌の上だったことになる。
帳面を強く握った。
だが——商人の頭が、すぐに反論した。
設計と選択は違う。道具を設計しても、道具がどう使われるかは使い手次第だ。エルがアシュタルを仲介者として設計したとしても、アシュタルがどう交渉するか、何を条件にするか、誰のために動くかは——アシュタル自身が決めたことだ。
モトとの交渉で魂を担保にしたのは、エルの計画ではない。アシュタルの選択だ。
バアルを連れ戻すために冥界に降りたのも。アナトと契約を結んだのも。弟のために甘いものを約束したのも。
全て——自分の選択だ。
帳面に書いた。
仲介者は設計された器。だが中身は自分で詰める。
「設計されたからといって——値段を決めるのは俺だ」
声が掠れた。だが言葉は明瞭だった。
帳面を閉じて、立ち上がった。
窓の外を見た。ウガルの港。潮の匂い。遠くの海に漁船が出ている。嵐の間隔が長くなったおかげで、漁が再開された日だった。市場に新鮮な魚が並ぶだろう。
日常だ。商人の日常。
だがその日常の中に——世界の仕組みを変える取引が待っている。
生と死の間に立つ仲介者。
商人にとって、これほど大きな取引はない。
仕入れ値は——命そのもの。
売上は——まだ、見えない。
だが商人は、見えない利益のために投資する。見えないものに値をつけるのが、商人の仕事だ。
「問題は——」
帳場を出ながら呟いた。
「取引相手がまだテーブルについていないことだ」
エルは隠居している。居場所は分からない。バアルは「準備ができたとき、現れる」と言った。
では——準備とは何か。
仲介者としての自覚か。印の変化を理解することか。あるいは——
通りに出た。夕方の市場に向かう人々とすれ違った。魚売りが声を張り上げ、布地屋が端切れを広げている。商人たちの日常。人間の日常。
アシュタルは足を止めた。
ふと——思い出した。
仲介者の本質。父の教え。
「仲介者は、両方の言い分を聞く。だが——最も大事なのは、自分がどちらの味方でもないと、両方に信じさせることだ」
どちらの味方でもない。
バアルの味方でも、モトの味方でもない。
生の味方でも、死の味方でもない。
それが——仲介者の条件。
だがアシュタルには、大切な人間がいる。守りたい家族がいる。弟の味覚を取り戻したい。一族を救いたい。それは——明確に「生」の側に立つ動機だ。
仲介者は中立でなければならない。だがアシュタルには、中立でいられない理由がある。
矛盾だ。
帳面に書き加えた。
課題——仲介者の中立性と、個人の動機の矛盾。
この矛盾をどう解くか。
答えはまだ出ない。だが商人は——答えが出ない問いを、帳面の端に書き留めておく。いつか帳尻が合う日のために。
市場で魚を買った。
帰り道、空を見上げた。雲が流れている。西から東へ。バアルの力の余波。
仲介者として——何をすべきか。何ができるのか。
その答えを探す旅が、もうすぐ始まる。




