嵐神の祈り
それは夜明け前に起きた。
アシュタルは自室の寝台で目を覚ました。右手首が——燃えていた。
比喩ではなかった。銀の円環紋様が白く輝き、熱を発している。以前にも印が反応したことはあった。バアルやモトの近くで淡く光る程度の。だがこれは——桁が違った。
布を剥ぎ取った。手首の内側で、印が脈打っていた。心臓と同じリズムで明滅している。そして——紋様が、動いていた。
銀の線が新しいかたちを描き始めている。
円環紋様の内側に、細い線が一本、二本と走り、絡み合い、文字を形成しつつあった。アシュタルが知っている文字ではない。ウガルの楔形文字でも、旅の途中で覚えた諸国の文字でもない。だが——粘土板の文字に似ていた。あの「生と死の——の間に立つ者を」が刻まれていた粘土板の文字。
痛みが走った。
腕を抱えて歯を食いしばった。冥界で門番に手を引かれたときの痛みに似ていたが——質が違う。あのときの痛みは何かを奪われる痛みだった。今の痛みは、何かが注ぎ込まれる痛みだ。
寝台を這い出た。夜着のまま、よろめきながら扉を開けた。廊下に出た。
足音が来た。
「何の騒ぎだ」
アナトが立っていた。赤い髪を解いたまま、金色の瞳が暗闘を切り裂いていた。戦女神は眠らない——いや、眠るが、異変には瞬時に反応する。
「印が——」
手首を見せた。
アナトの顔が変わった。
金色の瞳が見開かれた。戦争の女神が——驚いている。戦場で何千年も戦い、あらゆる異変に対処してきた存在が、目の前の光景に動揺している。
「何だ、これは——」
「分かりません。さっき起きたら——」
痛みの波が来た。膝が折れかけた。壁に手をついた。
アナトの手が伸びた。アシュタルの腕を掴んだ。戦女神の手は熱かった。神力が指先に宿っている。
印の光が——アナトの手に反応した。銀の光が赤みを帯びた。アナトの腕の戦の紋様が連動するように赤く明滅した。
「触るな——っ」
アナトが手を離した。
だが一瞬の接触で、印の変化は加速していた。文字の形成が速くなっている。銀の線が走り、曲がり、交差し——一つの言葉を描き出す。
バアルの気配がした。
「何事だ」
神殿から駆けつけたのだろう。嵐の神の気配は雷鳴のようにはっきりしていた。走ってきたバアルの顔に、同じ動揺があった。
「印が変化している——」
アシュタルは壁に背を預けたまま、右手首を差し出した。
バアルが屈み込んだ。印を覗き込む。青い瞳が——凍りついた。
「これは——」
バアルの声が揺れた。嵐の神の声が。
「読めますか」
アシュタルが掠れた声で訊いた。痛みで額に汗が浮かんでいる。だが商人の頭は動いていた。痛みは経費だ。払える間は払う。
バアルが息を呑んだ。
「……読める」
「何と」
長い沈黙があった。バアルとアナトが視線を交わした。兄妹の間で、言葉にならない何かが交差した。
「読んでください」
アシュタルの声は静かだった。痛みの中で、むしろ冷静になっていた。取引の勝負どころで胆が据わる。商人の本能だ。
バアルが口を開いた。
「——《選ばれし仲介者》」
文字が確定した。
銀の線が止まった。痛みが引いた。潮が退くように、一瞬で。残されたのは、円環紋様の内側に浮かんだ新しい文字だけだった。
選ばれし仲介者。
アシュタルは手首を見つめた。
「捧げもの」ではなかった。
最初からそう思われていたこの印は——捧げもの、犠牲、誰かに差し出されるための標——ではなかった。
仲介者。
売り手と買い手の間に立つ者。対立する二つの力の間を取り持つ者。取引を成立させる者。
商人の言葉だ。アシュタルが最もよく知る言葉だ。
「仲介者——」
声に出した。
バアルが立ち上がった。嵐の神の顔から血の気が引いていた。
「これは——」
バアルが言いかけて、口を閉じた。言葉を探している。嵐の神が——言葉を見つけられずにいる。
「お前は——捧げものではなかった」
やっと、それだけを搾り出した。
「最初から——これが、あの方の意図だった。お前は犠牲でも、道具でも、器でもない。お前は——」
「仲介者」
アシュタルが引き取った。
不思議な感覚だった。驚きと——納得が、同時にある。
驚き。印の意味がここに来て覆された。百五十日以上にわたって「捧げもの」だと信じていたものが、全く別の意味を持っていた。
だが——納得。
考えてみれば、最初からそうだった。アシュタルが神々の世界でやってきたことは、全て仲介だった。ヤムとの通商交渉。アシェラからの情報仲介。モトとの冥界の商談。バアルの帰還の段取り。対立する力の間に立ち、言葉で取引を成立させてきた。
仲介者。
それはアシュタルの生業そのものだった。商人とは——仲介者だ。
「何と何の——間に立てと言うんですか」
アシュタルが訊いた。
バアルが答えなかった。
アナトが壁に手をついて立っていた。金色の瞳に——複雑な光があった。安堵のような、恐怖のような。アシュタルが「捧げもの」ではなかったことへの安堵と、「仲介者」の意味するところへの——
「生と死の間に立つ者を」
アシュタルが呟いた。
粘土板の文言が蘇った。あの断片。「生と死の——の間に立つ者を」。今、全てが繋がった。
選ばれし仲介者。生と死の間に立つ者。
バアルとモトの間に立てということか。嵐と死の間に。生の力と終焉の力の間に。
それが——エルの意図。
帳面を開いた。手が震えていた。痛みのせいではない。興奮だ。商人が巨大な取引の全体像を初めて見たときの、あの興奮。
書き殴った。
印=「選ばれし仲介者」。捧げものではない。犠牲ではない。役割の付与。
粘土板「生と死の間に立つ者を」との接続——確定。
エルの意図=アシュタルを生と死の仲介者として設計。
印は呪いでも捧げものでもなく、仲介者としての資格証明。
筆を止めた。
顔を上げた。
「何と何の間に立てと言われているのかは——分かりました」
バアルとアナトが同時にアシュタルを見た。
「生と死の間。バアルとモトの間。嵐と冥界の間。——でも、それは半分しか答えじゃない」
「半分?」
「仲介者には、もう一つの問いが必要です」
商人の目が光った。
「何のために仲介するのか。取引の目的は何か。売り手と買い手を繋ぐのはいい。だが何を取引するのか——それが分からなければ、仲介は成立しない」
帳面を閉じた。
「その答えが——あの方のところにある」
バアルが目を閉じた。アナトが視線を逸らした。
アシュタルは手首の新しい紋様を見つめた。
仲介者。
何と何の間に立てと言うのか。何を取引させるつもりなのか。
その答えは——エルのもとにある。
商人にとって、これほど大きな取引はなかった。




