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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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父との再会

 翌日、アシュタルは神殿を訪ねた。


 バアルはいつもの奥間にいた。天窓の下、石の床に胡坐をかいて座り、両掌を上に向けている。掌の上で青白い光が明滅していた。力の制御訓練。帰還してから毎日欠かさず行っている。


 嵐の神の顔には、微かな疲労があった。額に汗が滲んでいる。神が汗をかく。それだけで、バアルの状態が万全でないことが分かる。


「邪魔しますよ」


「入れ」


 短い返事だった。バアルが掌の光を消した。青い瞳がアシュタルを見た。


「また帳面か」


「商人は帳面がないと不安になるんです」


 石壁に背を預けて座った。帳面を開いた。昨夜まとめた情報が並んでいる。


 直接は聞かない。周辺から攻める。商人のやり方だ。


「一つ、確認したいことがあります」


「何だ」


「あの方は今、どこにいるんですか」


 バアルの目が——一瞬、細まった。


 「あの方」。名前を出さなかった。だがバアルには通じている。嵐神の横顔に浮かんだのは——警戒ではなかった。もっと複雑な何か。息子が父について問われたときの、そういう表情。


「誰のことだ」


 バアルが問い返した。しかしその声に、本当に分からない者の響きはなかった。確認だ。お前はどこまで辿り着いたのか、という。


「名前は言いません。言えないんでしょう、あなたも」


 バアルが目を閉じた。長い吐息があった。嵐の神が息を吐くと、奥間の空気が微かに動いた。


「……誰も知らない」


「本当に?」


「俺も知らない。アシェラなら——かつては知っていたかもしれないが、今は分からない。あの方は隠居した。表舞台から完全に消えた。それは——カナアンの全ての神が知っている事実だ」


「でも、意志は生きている」


 アシュタルが静かに言った。


 バアルの目が開いた。青い瞳が——鋭くなった。


「なぜそう思う」


「印が残っているからです」


 右手首の布を少しずらした。銀の円環紋様。淡く光っている。バアルの近くにいると反応する紋様。


「あなたが設計者ではないと認めた。モトでもない。印を刻める存在は限られている。そして印は——今も、機能している。消えない。劣化もしない。つまり設計者の意志が、今もこの印に込められている。生きた意志でなければ、これほどの精度は保てない」


 商人の論理だ。取引相手を特定するとき、帳簿の動きを追う。金が動いているなら、動かしている者がいる。印が機能しているなら、機能させている者がいる。


 バアルは長い間黙っていた。


 天窓から差し込む光が角度を変えた。午前の光から午後の光へ。


「お前は——聡いな」


 バアルの声に、苦いものが混じっていた。


「聡すぎる。商人の聡さは——ときに、知らなくていいことまで暴く」


「知らなくていいことなんてありません。商人にとって情報は全て資産です」


「それが命を縮めることもある」


「命を賭けた商売は、冥界で経験済みです」


 バアルが鼻で笑った。だがすぐに表情が戻った。真剣な目。嵐の神の目。


「一つだけ言える」


「何ですか」


「あの方の意志は生きている。お前の言う通りだ。隠居したのは事実だ。だが——消えたわけではない。世界から手を引いたわけではない」


「では——何をしているんですか」


「分からない。だが——」


 バアルが窓の外を見た。空に浮かぶ雲を見ていた。自分の力の残滓である雲を。


「印が機能しているということは、あの方にはまだ目的がある。印はその目的のための——道具だ。そしてお前は——」


 言葉が途切れた。


「俺は?」


 バアルが口を閉じた。言いかけて、やめた。


「……言い過ぎた。忘れろ」


「忘れませんよ。商人は帳簿を——」


「忘れない、だろう。知っている」


 バアルの声に、微かな笑みが含まれていた。だがその笑みの奥に、何か重いものがあった。アシュタルの未来について——何かを知っている、あるいは推測している。そしてそれを口にする覚悟がない。


 あるいは、口にすることでアシュタルの選択に影響を与えたくないのかもしれない。


 嵐の神は、不器用に優しい。


「もう一つだけ」


「最後にしろ」


「あの方に——会う方法はありますか」


 バアルの目が、今度は真っ直ぐにアシュタルを見た。


「会ってどうする」


「商談です」


 アシュタルは真顔で答えた。


「印を刻んだ相手と直接交渉する。設計者の意図を聞く。条件次第では——新しい取引を持ちかける。こちらの要求は印の解除と一族の完全回復。向こうの要求は——まだ分からない。だから聞きに行く」


 バアルは長い間、アシュタルを見つめていた。


 そして——微かに頷いた。


「方法は分からない。だが——あの方が望めば、道は開かれる。いつも、そうだった」


「待てと?」


「急いでも辿り着けない場所がある。だが——準備はできる」


「準備」


「お前は商人だ。商談の前に何をする」


「相手を調べます。取引条件を洗い出す。持ち札を確認する」


「なら——そうしろ。お前の持ち札を確認しろ。あの方は——お前が準備できたとき、現れる。そういう方だ」


 創造神の影。見えないが、確かにそこにある。


 アシュタルは帳面に書き加えた。


 エルの所在——不明。ただし意志は生きている(バアル証言)。会う方法——不明。ただし「準備ができたとき、現れる」(バアル証言)。


 帳面を閉じて立ち上がった。


「ありがとうございます」


「礼を言うな。——俺は何も教えていない」


「何も教えてくれなかったのに、帳面が三ページ埋まりました。情報の対価は——今度、飯でも奢ります」


「……人間の飯を賄賂に使うな」


「賄賂じゃなくて接待です」


 バアルが額に手を当てた。呆れた顔だったが——口元が笑っていた。


 神殿を出た。


 空を見上げた。雲が東へ流れている。風は穏やかだ。


 だが穏やかさの奥に、何かが動いている。創造神の意志が。隠居した存在の目が。この世界を——まだ、見ている。


 アシュタルはペンダントを握った。銅の温もりが掌に伝わった。


 祖父もこれを握ったのだろうか。この温もりを感じながら、見えない存在の影を追ったのだろうか。


 帳面を胸に抱いた。


 商人は次の取引のために動く。見えない相手でも、取引の意志がある限り——交渉の余地はある。


 問題は、この取引の値段が——想像を超えて高いかもしれないことだ。


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