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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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甘いもの

 帳面を開いた。新しいページ。


 アシュタルは商会の帳場に座り、ここ数日で集めた情報を整理していた。


 印を刻んだ者の影。その輪郭が、少しずつ見えてきている。


 帳面の左側に、これまでの手がかりを時系列で並べた。商人が帳簿を作るように。仕入れと売上を突き合わせるように。


 一つ目。エル神殿の閉鎖。ウガルの街の人間なら誰でも知っている事実だが、閉鎖の時期が問題だった。父タグムに確認したところ、「祖父の代にはもう閉まっていた」という。つまり少なくとも五十年以上前。バアルが冥界に降りるよりずっと前だ。


 二つ目。祖父の時代に確認された文様。母の証言。祖父も「不思議な紋様」を見た。印は今に始まったものではない。何世代にもわたっている。


 三つ目。粘土板の「裁定」の文言。ウガルで最初に見つけた破片には「生と死の——」とあった。先日発見した新断片では「——の間に立つ者を」。繋げれば「生と死の間に立つ者を」。これは——誰かが記した言葉だ。偶然に刻まれた文字ではない。


 四つ目。バアルの証言。「古く、強い者」。印の設計は「精緻で美しい」。「数千年の神でも設計できる者は多くない」。名前を避けたが——嵐の神が畏れる存在は限られている。


 五つ目。モトの示唆。「あなたを見ている者」「あなたが生まれた時から」。モトは嘘つきだ。だが嘘の中に真実を混ぜる。この言葉には——嘘がなかった。


 六つ目。銅のペンダント。父から預けられた祖父の形見。紋様が印と似ている。バアルが「古い契約の匂い」と言った。


 全てを足し合わせた。


 商人の計算は単純だ。全ての項目が一つの方向を指しているなら、答えはそこにある。


 エル。


 創造神。最高神。カナアンの全てを生んだ存在。隠居したとされている。だが——隠居と不在は違う。


 帳面に書いた。太い線で囲んだ。


 印の刻印者——エル(推定→ほぼ確定)。


 根拠の集積——

 ・エル神殿閉鎖の時期と印の出現時期の一致

 ・祖父の代からの世代間継承(エルの計画の長期性を示唆)

 ・粘土板の文言「生と死の間に立つ者を」(裁定者の言葉)

 ・バアルの間接的証言(「古く強い者」「精緻な設計」)

 ・モトの示唆(「あなたを見ている者」)

 ・ペンダントの紋様と印の類似性


 筆を止めた。


 これだけの状況証拠がある。商取引なら、これで十分に相手を特定できる。裏取引の相手を洗い出すとき、帳簿の流れを追えば必ず辿り着く。金の流れは嘘をつかない。そして手がかりの流れも——嘘をつかない。


 だが。


 アシュタルは帳面を閉じかけて、やめた。


 もう一つ、書くべきことがある。


 なぜエルが印を刻んだのか。


 根拠は集まった。だが動機が分からない。最高神が、一介の商人の一族に、何世代にもわたって印を刻み続ける理由。バアルは「壊す意図ではない」と言った。「何かを成すための設計」だと。


 では——何を成すために。


 帳面に書いた。


 未解決——エルの意図。


 商人は帳簿を忘れない。だが帳簿に書けないものもある。数字にならない問い。値のつかない疑問。


 立ち上がった。窓の外を見た。ウガルの港が夕日に染まっていた。遠くの海に雲がある。バアルの力の揺らぎだろう。嵐にはなっていない。だがいつ嵐に変わるか分からない不安定さが、空の端に漂っていた。


 ペンダントを取り出した。銅の表面を指で撫でた。紋様の凹凸が指先に触れる。この紋様と印の紋様を並べたとき、同じ曲線が見えた。同じ角度。同じ力の流れ。設計思想が一致している。


 設計者が同一であれば——ペンダントも印も、同じ計画の一部だ。祖父の形見と、アシュタルの手首の印が、一つの意志で結ばれている。


 何世代にもわたる計画。


 その規模の大きさに、背筋が寒くなった。商人は大きな取引に慣れている。だがこれは——取引の規模が違う。百年単位の。神の単位の。


「全ての手がかりが一つの方向を指している」


 声に出して言った。声が掠れた。冥界で傷めた喉は、まだ完全には回復していない。以前のような張りのある声は戻らないかもしれない。商人にとって声は商売道具だ。その道具が錆びつきつつある。


 だが——掠れた声でも、言葉の切れ味は鈍らない。商人の武器は声量ではなく、言葉の選び方だ。


「だが——その名を口にする覚悟があるか」


 独り言だ。商人は取引の前に独り言を言う。自分の覚悟を確かめるために。


 エル。最高神。全ての神の父。バアルの父であり、アナトの父である存在。


 その名を口にするということは——神々の世界の最上位に挑むということだ。冥界のモトとの商談さえ命懸けだった。エルは、そのモトすら配置した存在だ。


 一介の商人が挑む相手ではない。


 だが——一介の商人にしか挑めない相手かもしれない。


 バアルは力で世界を治める。アナトは武力で敵を排除する。モトは死の権威で冥界を支配する。だがエルに対して力で挑む者はいない。力では勝てない。そしてエルの計画に対して、知恵で挑む者もいなかった——なぜなら、エルが最も知恵深いからだ。


 では何が残る。


 交渉だ。取引だ。商談だ。


 エルは全てを設計できる。だが設計した相手と——対等な条件で交渉することはできない。なぜなら設計者と被設計者は、対等ではないからだ。


 だが商人は——対等でない関係を、テーブルの上では対等にする。それが仲介者の技術だ。


 帳面を胸に抱いて、帳場を出た。


 夕暮れの通りを歩いた。明日、バアルに話をしよう。直接名前を出すのではなく——周辺から攻める。商人のやり方で。


 通りでは商人たちが店を畳み始めていた。布地屋のおやじが声をかけてきた。「坊、帰ってきたんだって? 大変だったろう」。笑顔で頷いた。何が大変だったか、この人は知らない。知らなくていい。人間の日常は、神々の問題とは別の場所にある。


 だがその日常を守るために——神々の問題に踏み込まなければならない。


 商人は帳簿を忘れない。そして商人は——全ての手がかりが指す先に、必ず足を運ぶ。


 たとえその先に、世界を創った存在が待っていようとも。


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