変わった街
バアルが口を開いたのは、嵐から三日後のことだった。
神殿の奥間。アシュタルが碑文の調査結果を持ってきた時だった。新断片の風化部分をバアルに読んでもらうためだ。だがバアルは粘土板ではなく、アシュタルを見ていた。
「一つ訊く」
バアルの声は低かった。いつもの落ち着きはあったが、その下に——真剣さがあった。嵐の神が真剣になるとき、空気に静電気が混じる。
「あの嵐の夜——アナトが何をしたか、覚えているな」
「覚えています」
「アナトが——お前を何と呼んだか」
心臓が跳ねた。
「……名前で、呼ばれました」
「ああ」
バアルが腕を組んだ。
「アナトが人間を名前で呼んだのは——俺の知る限り、数千年で一度もない」
その言葉の重さが、石壁に反響した。
「人間を名前で呼ぶことは——神にとって、ただの呼称の変更ではない。名前を呼ぶことは、存在を認めることだ。対等な存在として。あるいは——」
バアルの言葉が途切れた。
「あるいは——それ以上の存在として」
アシュタルは帳面を握っていた。開けなかった。
「バアル。あなたは——何を訊きたいんですか」
「訊きたいのではない。確認したい」
「何を」
「お前は——アナトの感情に、気づいているか」
直球だった。嵐の神は回り道をしない。雷は直線で落ちる。
アシュタルは深く息を吸った。
「気づいています」
「いつから」
「……いつからかは——分かりません。でも、旅の途中から。何かが変わっていくのは——見えていました」
「見えていて——どうする」
アシュタルは答えられなかった。
商人は常に答えを持っている。取引には落としどころがある。交渉には着地点がある。だがこの問いには——落としどころがなかった。
「バアル。正直に言います」
「言え」
「アナトの感情に気づいています。そして——僕の中にも、似たものがあることに。でも——」
「でも、禁忌だ」
「はい」
「禁忌の代償は聞いた。人間が焼かれる。世界が歪む」
「はい」
「それを知った上で——どうする」
「分かりません」
正直だった。商人としては最悪の回答だ。「分からない」は交渉の場では弱さだ。だが——嘘をつける相手ではなかった。
バアルが目を閉じた。
「お前は——正直な商人だな」
「正直は商人の美徳じゃないんですけどね」
「だがお前の正直さは——信頼に足る」
バアルが目を開けた。
青い瞳がアシュタルを見た。そこに——怒りはなかった。嫉妬もなかった。あったのは——苦しみだった。兄としての苦しみ。妹の幸福を願いながら、その幸福が禁忌であることを知っている苦しみ。
「お前、あの嵐の時——アナトの力の解放を見ただろう」
「見ました」
「あれは——アナトが制御を失った証だ。感情が力を上回った。戦争の女神が感情に呑まれるのは——本来あり得ない。あり得ないことが起きた」
「それは——」
「アナトに近づきすぎるな」
声が変わった。
低く、鋭く、雷のような声。忠告ではなかった。警告だった。
「アナトの感情が深まれば、力の暴走が増える。力が暴走すれば、お前の体が蝕まれる。そしてアナトは——お前を蝕んでいることに気づかない。気づいた時には——」
「手遅れになる、と」
「ああ」
アシュタルは黙った。
バアルの警告は正しかった。論理的に正しかった。禁忌の代償は現実だ。アナトの感情が深まれば、アシュタルの体が壊れていく。声が消え、体力が落ち、やがて——。
正しい。
だが——正しいことが、正解とは限らない。
「バアル」
「何だ」
「近づきすぎるな、と言われました。でも——離れることもできません」
「なぜ」
「印の調査には、アナトの協力が要ります。設計者に会うにも、アナトの力が要ります。そして——」
言葉を切った。
本当の理由は、そこではなかった。
本当の理由は——離れたくない、からだ。
だがそれは口にしなかった。口にすれば——バアルの兄としての苦しみを、さらに深くする。
「商人は——取引の途中で席を立てません」
代わりにそう言った。
バアルが——苦笑した。初めて見る種類の苦笑だった。
「……お前の口の上手さは、時々本当に腹が立つ」
「すみません」
「謝るな。——粘土板を見せろ。それが本来の用件だろう」
「はい」
粘土板を差し出した。
バアルが受け取り、風化した部分に目を凝らした。話題が変わった。表面上は。
だが——二人の間に、バアルの警告が影のように横たわっていた。
近づきすぎるな。
正しい忠告だった。
守れない忠告だった。
神殿を出た。夕暮れの空が広がっていた。嵐の跡の雲が薄くなり、茜色の空が見えていた。
帰り道——屋上を見上げた。
アナトが——いた。
三日ぶりだった。屋上に戻っていた。いつもの場所。いつもの姿勢。片膝を抱えて、海を見ている。
だが——何かが違った。
アナトの肩の線が。背中の角度が。以前とは、微妙に違っていた。
硬かった。
鎧のように。
何かを堪えているのだと、分かった。
アシュタルは屋上に上がらなかった。
帳場に戻り、帳面を開いた。
バアルの警告を書いた。「近づきすぎるな」。禁忌の代償。力の暴走。体の蝕み。
全て書いた。
そして——帳面の端に、小さく書いた。
守れない。
帳面を閉じた。
バアルは気づいている。アナトは自覚した。アシュタルも知っている。
三人とも——この感情が何であるかを知っている。
だが誰も、その名前を口にしない。
名前を口にすれば——禁忌が始まる。
だが名前を口にしなくても——もう、始まっているのかもしれなかった。
嵐の夜に、アナトが名前を呼んだ瞬間から。
全ては——もう、始まっていた。




