商人の帰還
目が覚めた。
体が重かった。前回よりも重い。印の修復機能は働いているが、回復が遅くなっている。二度目の損傷だ。蓄積されている。
右手首を見た。銀色の円環紋様が——前よりも強く光っていた。修復に力を使っているからだろう。紋様の線が一部太くなっている。気のせいかもしれない。だが——変化がある。
体を起こした。
ヤリムが隣で寝ていた。昨夜は兄が帰ってくるまで起きていて、帰った後も離れなかった。兄の布団に潜り込んだまま眠ったのだ。小さな寝顔。穏やかな寝息。
手を見た。包帯が巻いてあった。母が巻いてくれたのだろう。爪が割れた指は、まだ痛む。だが動く。帳面は書ける。
起き上がって、階段を降りた。
台所に——アナトがいた。
椅子に座っていた。食卓の前に。何も食べていない。何も飲んでいない。ただ座っている。
目が合った。
アナトが——目を逸らした。
アシュタルがここに来てから初めてのことだった。アナトは常に正面からアシュタルを見ていた。見下ろす視線で。苛烈な金色の瞳で。だが今日は——逸らした。
「……おはようございます」
声が掠れていた。昨夜よりは出るが、以前の声ではない。
「ああ」
短い返事だった。アナトの声も——いつもと違った。低くはない。高圧的でもない。ただ——平坦だった。感情を意図的に排除した声。
何かが変わった。
空気が違っていた。昨日までの空気と。
アシュタルは食卓に座った。向かい合った。距離はいつも通りだ。だが——いつも通りではなかった。
「怪我は——」
アナトが言いかけて、止めた。
「大丈夫です。印のおかげで——」
「分かっている」
遮られた。
沈黙が落ちた。
いつもの沈黙とは違った。以前のアナトの沈黙は刃のようだった。あるいは壁のようだった。だが今日の沈黙は——薄い硝子のようだった。触れれば割れそうな。
アシュタルは——問わなかった。
商人は相手の準備ができるまで値を言わない。この言葉を、何度自分に言い聞かせたか分からない。だが今日ほど、その言葉を必要としたことはなかった。
パンを取った。昨日の残りだ。齧った。味がした。だが——薄かった。味覚の問題か、それとも。
「昨夜は——ありがとうございました」
言った。当然のことだ。助けてもらったのだから、礼を言う。商人の礼儀。人間の礼儀。
アナトの肩が微かに動いた。
「礼を言うな」
「助けてもらったんですから——」
「礼を言うな」
二度目は——強かった。だが怒りではなかった。もっと切迫した何か。礼を言われることが——アナトにとって、何かの確認になるのを恐れているような。
「……分かりました」
アシュタルはそれ以上言わなかった。
朝食を終えた。アナトは何も食べなかった。
立ち上がる時、椅子の脚が床を擦った。その小さな音にアナトが反応した。肩が一瞬だけ跳ねた。まるで、背後から斬りかかられたかのように。
過敏になっている。アシュタルの動きに。音に。気配に。
戦場で背後の敵に反応するのと同じ速度で——アシュタルの存在に反応している。それは警戒ではなく、もっと別の種類の過敏さだった。
アシュタルは帳場に向かった。日常の仕事だ。帳面を開き、取引記録を確認し、父と商談の予定を話し合う。嵐の被害の確認もしなければならない。港の倉庫の損害報告を取りまとめ、保険の請求を整理する。商人の日常。数字と契約と交渉の日常。
だが——一日中、頭の隅にアナトのことがあった。
午後、港の復旧状況を確認しに行った。倒壊した倉庫の跡地に立つと、あの夜のことが蘇った。瓦礫の下。声の出ない喉。そして——嵐を裂いて来た赤い閃光。
名前を呼ばれた。
アシュタル、と。
あの声が——まだ耳の奥に残っている。消えない。商談の声も、波の音も、風の音も、あの声を上書きできない。
目を逸らしたアナト。声を平坦にしたアナト。「礼を言うな」と言ったアナト。
何かが変わった。昨夜の嵐で。
何が変わったのかを——アシュタルは知っていた。知っていて、確認しなかった。
夕方、屋上に上がった。
アナトが——いなかった。
珍しいことだった。いつもいる。毎日いる。海を見ている。風が気持ちいいだけだ、と嘘をつく。
今日はいなかった。
屋上は空っぽだった。潮風が吹いているだけだった。
アナトを探す気にはなれなかった。
代わりに——屋上の縁に座った。アナトがいつも座る場所に。
海が見えた。嵐の跡の海は荒れていたが、夕日が水面を染めていた。橙と金。
ここから、アナトはいつも海を見ていた。
この角度。この風。この景色。
何を見ていたのだろう。
海を見ていたのではない。たぶん、自分の中を見ていた。自分の中にある、名前をつけられない何かを。
アシュタルはその場所に座ったまま、帳面を開かなかった。
帳面に書けることは何もなかった。
ただ——座っていた。
アナトが毎日座っていた場所に。
風が吹いていた。
気持ちよくはなかった。
でも——動けなかった。
何かが変わったことだけは、分かっていた。二人の間の空気が。名前を呼ばれたこと。手を握られたこと。嵐の中で、祈りのように名前を呼ばれたこと。
その重さが——まだ、手の中にあった。
何かが変わった。
二人とも知っている。
でもまだ——言葉にはしない。
商人は相手の準備ができるまで待つ。
だが——待つことが、こんなにも重いとは知らなかった。




