ウガルの門
アナトは手を見ていた。
自分の手を。
神殿の一室。祭壇の裏の小部屋。アシュタルを家に送り届けた後、アナトはここに来た。バアルのいる奥間には行かなかった。兄の顔を見る余裕がなかった。
手が震えていた。
止まらなかった。
戦争の女神の手だ。双剣を振るい、敵を屠り、戦場を制圧してきた手だ。何千年もの間、一度も震えなかった手だ。恐怖でも、痛みでも、疲労でも、この手は震えなかった。
震えている。
止まらない。
握った。拳を作った。力を込めた。神力を流した。戦の紋様が赤く光った。
震えが止まった。
——いや、止まっていない。力で押さえ込んでいるだけだ。手の表面は静止しているが、内側が——骨の奥が、まだ震えている。
何なのだ、これは。
戦争の女神は自問した。
アシュタルが危険だった。瓦礫の下にいた。血まみれだった。爪が割れていた。声が出なかった。
それを見た瞬間——体が動いた。考えるより先に。判断するより先に。戦場での反射——敵を見つけた瞬間に剣を抜く反射と同じ速度で、体が動いた。
だが——違った。
戦場の反射は冷たい。感情はない。判断と行動が直結する、訓練された機械的な反応だ。
あの瞬間の反応は——冷たくなかった。
熱かった。
胸の奥が焼けるようだった。走っている間、足が地面を蹴るたびに胸の中で何かが叫んでいた。言葉ではない叫び。意味のない叫び。ただ——あの人間が壊れることを、あの人間の声が消えることを、あの人間の目が閉じることを、許せない、と。
許せない。
戦争の女神が——何かを「許せない」と感じている。
敵の攻撃なら斬ればいい。呪いなら解けばいい。だがアシュタルを壊すものは敵ではない。嵐は敵ではない。瓦礫は敵ではない。アシュタル自身の無謀さも、敵ではない。
斬れない。
剣で解決できない。
この手が——双剣ではなく、人間の手を握っていた。血まみれの、爪の割れた、脆い手を。
その手を握った瞬間の感覚が——消えない。
手の中に残っている。アシュタルの手の温度。人間の体温。印の微かな光。雨に洗われた血の感触。
その全てが——手の中に残っていて、消えない。
名前を呼んだ。
アシュタル、と。
なぜ呼んだ。
分からない。口が勝手に動いた。「人間」でも「小虫」でも「お前」でもなく——名前が出た。最初から知っていた名前。だが一度も口にしなかった名前。口にしてはいけないと、どこかで分かっていた名前。
口にした。
嵐の中で。血まみれの人間の前で。
呼んだ瞬間——何かが崩れた。
胸の中の壁が。何千年もかけて積み上げた壁が。戦争の女神としての壁が。
崩れた。
一瞬で。
名前を呼んだだけで。
手が震えている。まだ震えている。
私は——。
この人間に——。
思考が途切れた。言葉にならなかった。言葉の手前で、何かが拒否していた。戦争の女神としての矜持が。何千年の経験が。
だが——体は正直だった。
手が震えている。
胸が痛い。
目の奥が熱い。
これが——何なのか。名前をつければ分かる。名前をつければ確定する。確定すれば——もう戻れない。
禁忌。
バアルが言った。神が人間に本気の感情を向ければ、人間が焼かれる。世界が歪む。
つまり——名前をつければ、アシュタルが壊れる。
私の感情が——あの人間を壊す。
だから——名前をつけてはいけない。この感情に名前をつけてはいけない。手の震えを止めろ。胸の痛みを黙らせろ。戦争の女神に戻れ。
戦争の女神に——。
戻れなかった。
手が震えている。止まらない。
何千年も震えなかった手が。
これが——禁忌だ。
分かってしまった。
名前をつけなくても——もう、分かってしまった。
体が先に答えを出していた。手の震えが。胸の痛みが。嵐の中を走った足が。名前を呼んだ唇が。
全てが——答えていた。
私は——この人間を——。
言葉にしなかった。
言葉にすれば、確定する。確定すれば、禁忌が発動する。アシュタルが焼かれる。だから——言葉にしない。
だが——分かってしまった。
分かった上で、黙ることはできるのか。
戦争の女神は嘘が下手だ。隠し事ができない。感情を偽れない。怒りは剣に出る。苛立ちは声に出る。
この感情は——どこに出る。
手に出ている。震えとして。
思い返せば——兆候はあった。
屋上で海を見ていた日々。あれは海を見ていたのではなかった。自分の中にある何かを見つめていた。名前をつけたくない何かを。
食卓に座った日々。「不味い」と言いながら完食した日々。食事が必要なわけではなかった。必要だったのは——あの食卓の空気だった。人間の家の、温かい空気。アシュタルが焼いた魚の匂い。ヤリムが書く粘土板の文字。母の穏やかな声。父の渋い顔。
全て——必要ではなかった。神には不要なものだった。
だが——欲しかった。
この感情は——どこに出る。
止まらない。
扉が叩かれた。
「アナト」
バアルの声だった。
「入るぞ」
「——来るな」
「入る」
扉が開いた。バアルが立っていた。嵐の制御で消耗しているのだろう、顔色が悪かった。だがその目は——鋭かった。
バアルの視線が、アナトの手に向いた。
震えている手に。
長い沈黙があった。
「……分かったのか」
バアルの声は静かだった。
アナトは答えなかった。
答える代わりに——手を握った。拳を作った。震えを押さえ込もうとした。
押さえ込めなかった。
バアルが——一歩だけ近づいた。
それ以上は近づかなかった。
「俺は何も訊かない。お前が自分で決めるまで——何も」
「……出ていけ」
小さな声だった。
バアルが頷いた。
扉が閉まった。
一人になった。
手が震えていた。
嵐が遠ざかっていた。
だが——アナトの中の嵐は、始まったばかりだった。




