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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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近づく港

 二度目の嵐は、夜に来た。


 夕刻から風が強くなっていた。バアルの制御は前回よりもましだったが、それでも追いつかなかった。自然の嵐が大きすぎるのだ。カナアンの海から押し寄せる低気圧が、バアルの不安定な神力と共鳴して増幅される。


 雨が降り始めた。最初は細い雨だったが、夜になって豪雨に変わった。風が唸り、屋根を叩き、壁を揺らした。


 アシュタルは自室にいた。前回の怪我は印の修復機能でほぼ治ったが、体の芯にまだ鈍痛が残っている。声はさらに掠れていた。長く話すと喉の奥が焼けるように痛む。


 雷が鳴った。家全体が揺れた。


 ヤリムが部屋に走り込んできた。弟は雷が怖い。粘土板を抱えて、兄の布団に潜り込んだ。


「大丈夫だ」


 声を出した。掠れていたが、弟に聞こえる程度には出た。


 ヤリムが粘土板に書いた。


「おねえちゃん は?」


「たぶん屋上だ。嵐でも屋上にいるだろう。あの人は——雨に濡れても平気だから」


 ヤリムが首を振った。粘土板に書いた。


「しんぱい」


 弟は——アナトの心配をしていた。


 アシュタルは笑おうとした。笑えなかった。弟の「心配」は的外れではなかった。


 窓の外で、雷光が走った。一瞬、街が白く浮かび上がった。


 その瞬間——轟音が響いた。


 雷鳴ではなかった。もっと近い。もっと物質的な音。何かが崩れる音。


 石壁の崩壊音。


 港の方角。


 アシュタルは立ち上がった。


「ヤリム。ここにいろ。出るな」


 弟が手を掴んだ。粘土板に素早く書いた。


「いくな」


「大丈夫だ。すぐ戻る」


 嘘をつくのは——二度目だった。


 外に出た。


 暴風雨だった。前回以上だ。風が刃のように頬を切る。雨粒が針のように肌を打つ。視界がほぼゼロだった。


 港への道を走った。前回と同じ道。前回の嵐で修繕されたばかりの道。修繕が——もう崩れかけていた。


 港に出た。


 見えた。


 前回潰れた倉庫の隣——別の倉庫が崩壊していた。だがそれだけではなかった。倉庫の裏手の石壁が、嵐の力で外側に倒壊し、その先にある漁師の小屋を押し潰していた。


 小屋の中から声が聞こえた。複数の声。避難が間に合わなかった人たちだ。


 走り寄った。


 瓦礫を退け始めた。前回と同じだ。だが——前回よりも体が重い。前回の怪我の影響がまだ残っている。腕に力が入らない。


 それでもやるしかない。


 石壁の破片を掴んだ。持ち上がらない。別の角度から試した。隙間に手を突っ込み、てこの原理で押し上げようとした。指が潰れそうだった。


 雷が近くに落ちた。衝撃波で体が弾かれた。


 石畳に叩きつけられた。背中を打った。痛みが走った。


 起き上がった。


 また瓦礫に向かった。


 手が血まみれだった。爪が割れていた。だが——動いた。一つずつ、石を退けていった。


 小屋の中の声が弱まっていた。


 間に合わない。


 このままでは——人間の力では間に合わない。


 そう思った瞬間——。


 空気が変わった。


 嵐の風が、一瞬だけ止まった。


 代わりに別の力が空間を満たした。赤い光。戦の紋様の光。


 アナトが来た。


 嵐を裂いて。


 今度は——声が聞こえた。アナトの声ではない。アナトが走ってくる時の、空気を切り裂く音だ。音速に近い速度で移動する時の衝撃波。


 赤い閃光が瓦礫に突っ込んだ。


 石壁が砕けた。拳一つで。戦争の女神の拳が石壁の破片を粉々にした。コンクリートを砕くような音が連続した。


 アナトが小屋の瓦礫を掘り出していた。人間が数十人がかりでも動かせないものを、一人で。数秒で。


 中から三人が引き出された。漁師の家族だった。怪我をしているが、生きている。


 アナトが最後の一人を引き出した後、振り返った。


 アシュタルを見た。


 金色の瞳が——揺れていた。雨に濡れた赤い髪が顔に貼りついている。戦の紋様が赤く光っている。その光の中で、アナトの目が——震えていた。


 アシュタルは石畳に座り込んでいた。立つ力が残っていなかった。両手は血まみれだった。爪が割れ、指の皮が剥けていた。雨が血を洗い流したが、新しい血がすぐに滲んだ。


 アナトが近づいてきた。


 膝をついた。


 アシュタルの前に。


 戦争の女神が——膝をついた。


「……馬鹿」


 小さな声だった。嵐の音にかき消されそうなほど小さな。


「なぜ——また——」


 声が震えていた。


 アナトの手がアシュタルの手を掴んだ。血まみれの手を。砕けた爪の指を。戦の紋様が刻まれた腕で、人間の壊れかけた手を包んだ。


「声が——出ないのだろう。分かっている。分かっているのに——なぜ、一人で来る」


 アシュタルは口を開いた。声を出そうとした。


 出なかった。


 唇が動いた。音にならなかった。


 雨が降っていた。雷が鳴っていた。嵐が二人を包んでいた。


 アナトの呼吸が変わった。戦士の呼吸——均一で静かで、決して乱れない呼吸が——崩れていた。吸う息が浅く、吐く息が長い。感情が呼吸の制御を奪っている。何千年もの戦場で一度も乱れなかったリズムが、今——嵐の中で壊れていた。


 アナトの右手が動いた。双剣の柄を握り続けてきた手。その手が——剣から離れ、行き場を失ったように宙を彷徨い、そしてアシュタルの頬に触れかけて——止まった。指先が数寸のところで留まっている。触れたい。だが触れれば壊れる。その葛藤が、指先の震えになっていた。


 金色の瞳の奥にある、名前のない光。


 アナトの唇が動いた。


「——アシュタル」


 名前。


 アシュタルの名前。


 アナトが初めて——名前を呼んだ。


 「小虫」でも「商人」でも「人間」でも「お前」でもない。


 アシュタル。


 その四文字が、嵐の中で響いた。雷鳴よりも鮮明に。暴風よりも確かに。


 名前を呼ぶ。それだけのことだ。何千年も生きてきた女神が、人間の名前を呼ぶ。それだけの——小さなこと。


 だがその小さなことが——全てを変えた。


 アナトの手が震えていた。アシュタルの手を握る力が——強くなっていた。戦争の女神の握力なら、人間の手など簡単に砕ける。だが砕かない。壊さないように、壊さないように、震えながら握っていた。


「死ぬな」


 その一語だけが、声になった。残りは——声にならなかった。唇が次の言葉を形作ろうとして、二度、三度、途切れた。言おうとしている。何かを。だが言葉が喉の手前で砕けている。


「死なないと分かっている。印があることは分かっている。だが——」


 沈黙が落ちた。嵐の沈黙ではない。怒りの沈黙でもない。アナトが時折見せる沈黙——何を言えばいいか分からない時の、途方に暮れた静けさだった。戦場なら剣を振るえばいい。敵なら斬ればいい。だが目の前の壊れかけた人間に対して、剣は何の役にも立たない。


「お前は死なない。死なないはずだ。だが——私は——」


 名前を呼んだ。もう一度。


「アシュタル」


 その呼び方は——祈りに似ていた。


 戦争の女神は、何千年も祈ったことがなかった。祈る側ではなく、祈られる側だった。神に祈りを捧げるのは人間の仕事だ。神は祈らない。


 だが今——アナトは祈っていた。


 人間の名前を呼ぶという、最も素朴な祈りを。


 アシュタルは——声が出なかった。


 出なくても、口が動いた。


 唇の形で言った。


「——大丈夫、です」


 音にならなかった。だがアナトは読んだ。唇の動きを。戦士の目が、嵐の中で、唇の形を読み取った。


 アナトの両手が——アシュタルの肩を掴んでいた。剣を握る時とは違う力の入れ方だった。壊さないように。だが離さないように。その矛盾した二つの力が、指の一本一本に行き渡っていた。


 そして——アシュタルを抱え上げた。


 前回と同じように。だが——違った。前回は戦場での回収だった。負傷兵を運ぶ手際だった。


 今回は——違った。


 アナトの腕が——優しかった。


 嵐の中を走った。雨を裂き、風を蹴り、雷の下を駆けた。


 神殿ではなく——アシュタルの家に向かっていた。


 弟が待っている家に。


 アナトはそれを知っていた。ヤリムが待っていることを。兄が帰るのを待っていることを。


 家の前で降ろされた。


 アナトの手が離れた。


 離れる瞬間——指先が、ほんの一瞬だけ、アシュタルの手に触れた。


 そして背を向けた。


 嵐の中に消えた。


 赤い髪が——雨の闇に溶けていった。


 アシュタルは扉の前に立ったまま、動けなかった。


 嵐の音だけが聞こえていた。


 だが耳の奥には——名前が残っていた。


 アシュタル。


 アナトの声で呼ばれた、自分の名前が。


 それだけで——全てが変わった。


 何が変わったのかは、まだ言葉にできなかった。だが——変わった。


 扉を開けた。ヤリムが走ってきた。兄の血まみれの手を見て、顔が歪んだ。粘土板に何か書こうとしたが、手が震えて書けなかった。


「大丈夫だ」


 掠れた声で言った。


 弟を抱いた。


 嵐が——遠ざかっていった。


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