商人の再計算
意識が薄れていた間に、何が起きたのかを後から聞いた。
バアルから。
「アナトが——お前の危機を、感知した」
翌朝、神殿の奥間でバアルは言った。アシュタルは祭壇の横に寝かされたまま、体の修復を待っていた。印の保護機能と、バアルの神力の補助で、傷はほぼ塞がった。だが体の芯に痛みが残っている。
「感知?」
「神は本来、人間の状態を直接感知しない。信仰を通じて間接的に知る程度だ。だがアナトは——嵐の最中に突然、お前の方角を向いた。何も聞いていないはずなのに。そして走った」
「走った」
「全力で。俺が止める間もなかった。神殿の壁を蹴って飛び出した。港までの道を——戦場を駆けるように」
バアルの声は静かだったが、その静かさの中に何かが潜んでいた。
「アナトの力の解放は——制御されていなかった。全力の神力を解き放って走った。周囲の建物の窓が割れ、石畳にひびが入った。あれは——戦場での力の使い方だ。敵陣を突破する時の」
「敵はいなかったでしょう」
「いなかった。だがアナトにとっては——お前を傷つけるもの全てが敵だった。瓦礫も、嵐も、雨も」
バアルの青い瞳がアシュタルを見た。
「分かるか。何を言っているか」
分かっていた。分かりたくなかったが、分かっていた。
アナトの力の解放は感情に連動している。怒りで戦えば力が増す。恐怖で走れば力が暴走する。アナトがあれほどの力を解放したのは——感情が制御を超えたからだ。
アシュタルへの感情が。
「バアル」
「何だ」
「昨日教えてもらった禁忌の定義。神が人間に感情を向けると、神力が人間に流れ込む。人間の肉体を蝕む」
「ああ」
「アナトの力の解放は——その、流入に該当しますか」
バアルの沈黙が長かった。
「直接的な流入ではない。あの場では、アナトの力はお前ではなく瓦礫に向けられていた。だが——間接的な影響はある。アナトの神力が周囲に溢れた。その中にお前がいた。お前の体は——少なからず、アナトの神力に晒された」
「それは——」
「今すぐ影響が出るほどではない。だが——繰り返されれば」
バアルの言葉が途切れた。
言わなくても分かった。繰り返されれば、アシュタルの体は少しずつ蝕まれる。声の劣化が加速するかもしれない。あるいは、もっと別の症状が出るかもしれない。
「アナトに——言うつもりですか」
「言わない」
「なぜ」
「言えばアナトは——お前から離れる。離れるために自分の感情を斬り捨てようとする。戦女神は、守るために自分を傷つけることを躊躇わない」
バアルの声には苦みがあった。兄としての苦み。妹を知り尽くしている兄の。
アシュタルは黙って聞いていた。バアルの言葉の一つ一つが、帳面に書けない種類の重さを持っていた。
アナトが離れる。その想像が——アシュタルの胸を締めつけた。
おかしな話だった。百五十日前、アナトは「道具」としてアシュタルに近づいた。利用するために。契約のために。感情などなかった。少なくとも表面上は。
だが今——アナトが離れるという可能性が、胸を痛ませている。いつの間にか、アナトが傍にいることが——日常になっていた。屋上にいるアナト。食卓に座るアナト。「不味い」と言いながら完食するアナト。「うるさい」と言いながら離れないアナト。
その全てが——失われることを想像するだけで、帳面の数字が霞んだ。
「だが——お前には知っておいてほしい。禁忌は概念ではない。現実だ。アナトの感情が深まれば——代償も大きくなる」
アシュタルは帳面を開かなかった。この会話は帳面に書くべきものではなかった。
「バアル。一つだけ」
「何だ」
「アナトは——自覚していますか。自分の感情に」
バアルが窓の外を見た。嵐の跡の空。雲が薄くなり、青空が覗いている。
「していない。あるいは——していたくない」
「していたくない」
「アナトは戦争の女神だ。何千年も戦ってきた。感情を武器に変える訓練を積んできた。だがこの感情は——武器にならない。むしろ弱さになる。弱さを認めることは、アナトにとって——最も恐ろしいことだ」
弱さ。
アシュタルは自分の胸に手を当てた。心臓が静かに鳴っている。
アナトの弱さ。戦争の女神の弱さ。それがアシュタルに向けられている。
怖かった。
禁忌の代償が怖いのではない。アナトの感情が怖いのでもない。
怖かったのは——自分の中にも、同じものが育ちつつあることだった。
アナトの弱さに応えたい、と思ってしまう自分が。商人は取引相手に情を持つべきではない。情で動けば損をする。損を承知で動くのは——商人失格だ。
だがこの感情は——損得では計れなかった。
神殿を出た。
空は晴れ始めていた。嵐の跡が街に残っていた。折れた木の枝。飛ばされた瓦。水浸しの道。
帰宅すると、アナトが屋上にいなかった。
珍しいことだった。
家の中を探した。いない。
街に出た。港にもいない。市場にもいない。
見つけたのは——エル神殿の前だった。
閉ざされた扉の前に、アナトが立っていた。背を向けていた。腕を組み、石の扉を見つめていた。
赤い髪が風に揺れていた。
声をかけなかった。
アナトが——何を見ているのか、分かった気がしたからだ。
閉ざされた神殿。父——あるいは父的存在——が去った場所。答えがあるかもしれない場所。禁忌の例外があるなら、最高神が知っているかもしれない。
だがエルはいない。
アナトはしばらく扉を見つめた後、背を向けて歩き出した。
アシュタルは物陰に身を隠していた。アナトとすれ違わないように。
アナトの足音が遠ざかっていった。戦女神の足音は本来無音だ。だが今日は——微かに聞こえた。地面を踏む音が。力を抜いて歩いている。あるいは——力が入らないのか。
アナトが去った後、エル神殿の扉を見た。
冷たい石の扉。閉ざされたまま。扉の隙間から、微かに冷たい空気が漏れていた。長い間誰も入っていない建物の空気。埃と石の匂い。
アナトはここに何を求めに来たのだろう。
禁忌の答えか。例外の可能性か。あるいは——父に似た存在に、助けを求めに来たのか。
戦争の女神が、助けを求める。
その姿を想像するだけで——胸が痛んだ。
禁忌の答えは——ここにはなかった。
まだ。




