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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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第二百夜

 瓦礫が吹き飛んだ。


 上からではない。横からだ。石壁の残骸が紙のように砕け散り、木材が折れ飛んだ。暴風のような力が瓦礫を押し退け、雨の中に破片が散った。


 そして——赤い髪が見えた。


 アナトだった。


 戦争の女神が、嵐の中に立っていた。


 両腕の戦の紋様が赤く発光していた。全力だ。神力が全身から溢れ出ている。風が——アナトを中心にして渦巻いていた。嵐の風ではない。アナトの神力が空気を押しのけている。


 周囲の建物が震えた。窓硝子が割れた。波止場の石畳にひびが入った。


 戦争の女神の全力解放。


 アナトが瓦礫に手を突っ込んだ。素手で。双剣も使わず、素手で石と木を掴み、投げ飛ばした。百斤はある石壁の塊を、片手で横に放った。梁を掴んで引き抜いた。釘が悲鳴を上げて折れた。


 圧倒的だった。


 これが——戦争の女神だ。原典では膝まで血に浸かって敵を屠ったと謳われる存在。その全力が、今、瓦礫に向けられている。瓦礫が弾け飛び、石壁の破片が雨の中を舞い、木材が紙のようにへし折れていく。


 嵐すら道を空けたように見えた。アナトの神力が空間を支配し、暴風雨が一瞬だけ弱まった。


 数秒だった。アシュタルの上に覆いかぶさっていた瓦礫が、数秒で除去された。


「——っ」


 アナトの手がアシュタルの肩を掴んだ。


 引き起こされた。雨の中で、アナトの顔が間近にあった。金色の瞳が——異様だった。苛烈でも冷徹でもない。もっと生々しい——恐怖に近い光が宿っていた。


 戦争の女神が恐怖を浮かべている。


 何千年も戦場を駆けた存在が——恐れている。


「……ア、ナ——」


 声が掠れた。名前を呼ぼうとしたが、声帯が従わない。音にならなかった。


 アナトの手がアシュタルの体を確認していた。頭。肩。背中。脇腹。触れるたびにアシュタルの体が痛んだが——骨は折れていないようだった。印の保護機能だろう。死なない。だが痛みはある。


「喋るな」


 アナトの声は低かった。震えていた。


「声が——出ないなら、喋るな。馬鹿が。なぜ一人で来た。なぜ嵐の中を——」


 言葉が切れた。


 アナトの手が——震えていた。


 アシュタルの肩を掴む手が。戦争の女神の手が。千年の戦場を生き抜いた手が。


 震えていた。


 倉庫番の老人も瓦礫の下から引き出された。アナトが梁を片手で持ち上げ、老人を引きずり出した。老人は気を失っていたが、呼吸はあった。


 アナトがアシュタルを抱え上げた。横抱きだ。抵抗する余力はなかった。体中が痛む。雨が顔を打つ。


「動くな。運ぶ」


 アナトが走り出した。


 嵐の中を。


 戦争の女神の足は速かった。人間の全力疾走の何倍もの速さで石畳を蹴り、水溜まりを跳び、倒れた屋台を飛び越えた。アシュタルの体は揺れたが、アナトの腕は——安定していた。戦場を駆ける時の身体制御で、抱えた人間に衝撃を伝えない。


 だが腕は——震えていた。


 走りながら、震えていた。


 アシュタルは薄れる意識の中で、そのことだけを——はっきりと感じていた。


 神殿に着いた。


 バアルが入口に立っていた。嵐の制御を試みていたのだろう。額に汗——いや、神力の結露が浮いていた。


「アナト——何があった」


「港の倉庫が倒壊した。この馬鹿が一人で——」


 アナトの声が途切れた。


 バアルがアシュタルを見た。血まみれだった。頭から血が流れ、肩と背中に打撲の跡がある。右手首の布が解け、印が露出していた。銀色の円環紋様が——淡く光っている。


「印が反応している。体が修復を——」


「分かっている!」


 アナトが遮った。声が大きかった。大きすぎた。神殿の壁が揺れた。天窓の硝子が軋んだ。アナトの声に含まれた神力が、物理的な振動となって建物を震わせていた。


 感情が制御を超えている。戦争の女神の感情が。


 バアルが——一瞬、目を細めた。妹の声に含まれた感情の色を、嵐の神は聞き取ったはずだ。怒りではない。恐怖でもない。もっと根深い——もっと名前をつけにくい感情。


 バアルが——一瞬、妹の顔を見た。


 何かを見た。アナトの表情の中に、何かを。


 だが何も言わなかった。


「奥の祭壇に寝かせろ。印の修復を促進する」


 アナトがアシュタルを祭壇の横に降ろした。石の床は冷たかったが、印が温もりを発していた。修復機能が作動している。


 バアルが手をかざした。嵐の神力が印に流れ込み、修復を加速させた。アシュタルの傷が——少しずつ、塞がっていく。


 痛みが引いていった。


 意識が戻ってきた。


 目を開けた。


 天井が見えた。神殿の石天井。雷鳴が遠くなっている。嵐は収まりかけていた。バアルが制御を取り戻しつつあるのだ。


 首を動かした。


 アナトがいた。


 祭壇の横に膝をついていた。両手を膝の上に置いている。顔は——見えなかった。俯いていた。赤い髪が顔を隠していた。


「アナ——」


 声が出た。掠れていたが、出た。


 アナトが顔を上げなかった。


 だが——手が、まだ震えていた。


 膝の上に置かれた手が。


 戦争の女神の手が。


 嵐が——遠ざかっていった。


 雷鳴の間隔が長くなった。バアルが制御を取り戻しつつある。風が弱まり、雨が細くなり、天窓から微かに光が差し始めた。


 代わりに——沈黙が降りてきた。


 祭壇の石の冷たさが背中から伝わっていた。印が温もりを発している。修復の温もり。生と死の中間に固定する力の温もり。


 アナトの手は——まだ膝の上にあった。微かに震えている。その震えを、アシュタルは薄れる意識の中で見ていた。戦争の女神の手が震えている。何千年の戦いで一度も震えなかった手が。


 何のために震えているのか。


 答えは——分かりかけていた。分かりかけていて、目を閉じた。


 その沈黙は、これまでのどの沈黙とも違っていた。


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