紅い夕焼け
嵐が来た。
季節外れの大嵐だった。
前兆はあった。朝から空が暗く、北の空に黒い雲の壁が立ち上がっていた。バアルの力の暴走——ではなかった。暴走なら神殿の方角から雷が走る。だがこの嵐は海の方角から来た。自然の嵐と、バアルの不安定な力が共鳴して、制御不能な規模に膨れ上がったのだ。
昼過ぎに風が変わった。
穏やかだった潮風が、突然牙を剥いた。漁船が港に駆け込んできた。帆柱が折れた船もあった。市場の天幕が吹き飛ばされ、果物の籠が石畳の上を転がっていった。
アシュタルは帳場にいた。風の音が変わった瞬間、立ち上がった。
「父さん、嵐だ」
「分かっている。雨戸を閉めろ。ヤリムは奥の部屋に入れろ」
父の声は落ち着いていた。港湾都市の商人は嵐に慣れている。だがこの嵐は——いつもと違った。風の勢いが違う。
雨戸を閉めた。ヤリムを母と一緒に奥の部屋に入れた。弟は怯えていた。声が出ない代わりに、粘土板に「こわい」と書いた。
「大丈夫だ。すぐ収まる」
嘘だった。収まる気配はなかった。風がさらに強くなっている。屋根の瓦が飛ぶ音がした。隣家ではない。もっと遠く——港の方角だ。
帳場に戻った。雨戸の隙間から外を見た。
豪雨だった。視界が白くなるほどの。石畳の道が川のように水が流れている。雷が鳴った。地面が揺れた。
バアルの制御が追いついていない。
以前のバアルなら——全盛期のバアルなら、この程度の嵐は片手で押さえられたはずだ。だが今のバアルは全盛期の三割の力だ。自然の嵐と自分の神力の共鳴を、制御しきれていない。
雷が連続して落ちた。港の方角で何かが崩れる音がした。
「倉庫がやられたか」
父が呟いた。
「見てきます」
「馬鹿を言うな。この嵐の中を——」
「港の倉庫にうちの荷もある。確認しないと」
「荷より命が——」
「死にませんよ。印があるんで」
父が口を閉じた。皮肉な事実だった。印があるから死なない。呪いのおかげで、嵐の中に飛び出せる。
外に出た。
風が壁のように襲いかかってきた。体が持っていかれそうになる。フードを深く被り、壁伝いに進んだ。雨が横殴りに降っている。視界は二間先も見えない。
港への道を走った。
途中、人々とすれ違った。避難している住民たちだ。子供を抱えた母親。荷物を背負った老人。皆、高台へ向かっている。
「倉庫の方は危ないよ! 波が来てる!」
誰かが叫んだ。
波。高潮か。嵐と高潮が重なれば、港の倉庫は水に浸かる。
走った。
港に出た。
凄まじい光景だった。海が怒っていた。波が防波堤を越え、波止場を洗っている。係留されていた船が大きく揺れ、ロープが軋んでいた。倉庫群の屋根が——一棟、潰れていた。
あの倉庫だ。ベン=シャハル商会の荷が入っている倉庫。
走り寄った。
倉庫の壁が崩れていた。石壁の一部が風圧で内側に倒れ、屋根を支えていた梁が折れた。中の荷物は——。
瓦礫の隙間から中を覗いた。オリーブ油の壺が割れている。麻布の反物が水に浸かっている。損害は大きいが、人的被害は——。
声が聞こえた。
瓦礫の向こうから。
「——助け——」
かすれた声だった。
誰かがいる。倉庫の中に人がいる。
「誰だ! どこにいる!」
叫んだ。だが風の音にかき消される。
瓦礫を掻き分けた。石と木材が重なっている。人間の力では動かせない量だ。
だがやるしかない。
腕に力を込めた。木材を一本ずつ退けていく。手が切れた。血が雨に洗い流された。指の皮が裂けた。爪が石壁の欠片に引っかかって剥がれそうになった。痛い。痛いが——止まれない。
商人の体だ。武器も持たない。訓練もしていない。走って逃げるのが得意なだけの、港町の商人の体だ。だがこの体でやるしかない。他に誰もいない。嵐の中に飛び出してきた馬鹿は自分だけだ。
奥で——人影が見えた。倉庫番の老人だった。梁の下敷きになっている。意識はある。だが動けない。
「待ってろ! 今出す!」
声が掠れた。叫びすぎだ。印の影響で声が弱くなっている。喉の奥が痛い。
梁を持ち上げようとした。重い。人間一人の力では——。
雷が落ちた。至近距離。轟音と光が同時に来た。地面が震えた。
耳が痺れた。
頭上で——軋み音がした。
見上げた。
残っていた屋根の一部が——落ちてくる。
避ける時間はなかった。
体の上に瓦礫が降ってきた。石と木材が肩を打ち、背中を打ち、頭を打った。
意識が——白くなった。
痛みがあった。だが——死なない。印がある。死なないが、動けない。瓦礫に挟まれて身動きが取れない。
声を出そうとした。
出なかった。
声が——出ない。喉が痛む。声帯が限界に達している。印の影響で声が劣化していた症状が、ここで致命的に効いた。
助けを呼べない。
雨の音だけが聞こえた。風の咆哮。雷鳴。
皮肉だった。死なない体で、助けを呼べない。印のおかげで死なないが、印のせいで声が出ない。生かされて、閉じ込められている。
生と死の中間。
バアルの言葉が頭をよぎった。「お前は生と死の中間に固定されている」。その通りだった。死ねないが、生きてもいない。瓦礫の中で、雨に打たれて、声も出せずに横たわっている。
意識が薄れかけた。
帳面のことを考えた。今日の分は書いていない。帳場に帳面を置いてきた。印の調査記録も途中だ。ペンダントの紋様の比較表も未完成だ。
死なない。印のおかげで死なない。だがこのまま瓦礫の下にいたら——いつまで。誰かが見つけてくれるまで。嵐が収まるまで。何時間。何日。
弟が待っている。「こわい」と書いた弟が。
母が待っている。冷たい手で茶を出してくれる母が。
帳面が待っている。まだ書き終えていない帳面が。
雨の音が遠くなった。
その時——何かが聞こえた。
雷鳴でも風でもない。
遠くから——何かが近づいてくる音。
地面が震えていた。嵐のせいではない。もっと規則的な振動。何かが——走ってくる。
凄まじい速さで。




