バアルの懺悔
アシュタルがアナトの知らない顔を見たのは、何気ない午後のことだった。
帳場の窓から、通りが見えた。
アナトがいた。通りの向こう側。ヤリムと一緒にいた。
弟が粘土板を持って何かを書いている。アナトがそれを覗き込んでいる。ヤリムが書いたものを見せると、アナトが——眉を上げた。何かを言った。ヤリムがむくれた。アナトがまた何か言った。ヤリムが今度は笑った。
アシュタルの知らない表情が、そこにあった。
アナトが——笑っていた。
笑っていた、と言うには語弊がある。口元が緩んだだけだ。金色の瞳が細まっただけだ。だがあの苛烈な戦争の女神の表情が、ほんの僅かだが和らいでいた。子供の粘土板の字を見て。
アシュタルは帳面から目を上げたまま、その光景を見ていた。
見てはいけないものを見ている気がした。
しばらくして、アナトとヤリムは歩いていった。市場の方角だ。ヤリムが何か書いてアナトに見せている。アナトが首を振っている。ヤリムがまた何か書いている。アナトが——肩をすくめた。
諦めたような仕草だった。だが——拒絶ではなかった。「仕方がない」という諦め。人間の子供に押し切られる戦争の女神。
帳面に目を戻した。だが数字が頭に入ってこなかった。
午後遅く、帳場を出て港に向かった。商人仲間のハビルに会う約束があった。ハビルは父の代からの取引相手で、穀物商だ。嵐の被害で小麦の仕入れが滞っており、価格交渉が必要だった。
港の酒場でハビルと会った。
「おお、若旦那。元気だったか。半年も何してたんだ」
「ちょっと遠出してまして」
「遠出って、噂じゃ神さまと旅してたとか——」
「噂は噂ですよ。で、小麦の件ですが——」
商談を進めた。いつもの作業だ。数字を読み、相手の表情を読み、落としどころを探る。商人の呼吸。
商談がまとまり、ハビルと別れた。
帰り道、路地を抜けると——アナトが見えた。
港の広場だった。商人仲間の一人が荷を運んでいて、アナトがそれを見ていた。いや、見ていたのではない。荷車が石畳の段差に引っかかって動けなくなっていた。商人が一人で押している。
アナトが——片手で荷車を持ち上げた。
商人が目を丸くした。アナトは何も言わず、荷車を段差の先に降ろした。商人が礼を言おうとしたが、アナトはもう背を向けていた。
その背中を、アシュタルは遠くから見ていた。
戦争の女神が、人間の荷車を持ち上げている。荷車だ。戦争ではない。敵を斬る手が、荷物を運ぶ手になっている。
アナトは——ウガルの日常に、少しずつ馴染んでいた。
気づいていないのかもしれない。本人は「ここにいるのは契約のため」だと思っている。だが体が先に馴染んでいる。子供と粘土板で遊び、荷車を持ち上げ、食卓に座り、食器を洗う。
神が——人間の生活に染まりつつある。
帰宅して、屋上に上がらなかった。
帳場で父に報告した。港の状況。嵐の被害。保険の件。商人としてのやるべきことを淡々とこなした。父は灰色の肌のまま帳面を捲り、数字を確認し、息子の報告に頷いた。
母が茶を出してくれた。冷たい手で。アシュタルはその茶を飲みながら——母の手の温度が、以前より低くなっていることに気づいた。印の影響が進行している。少しずつ、だが確実に。
印を消さなければ。
だがその思考の裏側で——別のことが頭を離れなかった。
通りで見たアナトの顔。ヤリムと一緒にいた時の顔。荷車を持ち上げた時の背中。
代わりに自室の窓から空を見た。西の空に夕焼けが広がっている。その手前に、屋上の縁が見えた。
アナトがいた。
今日もいた。海を見ていた。だが——さっきまでヤリムと遊び、荷車を持ち上げ、人間の日常の中にいたアナトが、今は一人で屋上に座っている。
孤独だった。
あの横顔は——孤独だった。
何千年も最強であり続けた存在。対等な相手がいなかった存在。バアルだけが唯一の理解者で、そのバアルは冥界にいた。
バアルは帰った。だがアナトはバアルの傍に戻れない。戻っても、以前と同じ場所に立てない。何かが変わってしまった。旅の中で。
アシュタルの胸が痛んだ。
名前のない痛みだった。
同情ではない。憐れみでもない。もっと別の——もっと近い場所にある痛み。アナトが孤独であることが、アシュタル自身の痛みになっている。
なぜだ。
帳面を開いた。書こうとした。だが——何を書けばいい。「アナトが孤独に見えた」と帳面に書けば、それは事実の記録だ。だがその事実がアシュタルの胸を痛ませている理由を、帳面にどう書く。
書けなかった。
帳面を閉じた。
窓の外で、アナトが立ち上がった。屋上の縁を歩き、消えた。夕闇の中に。
名前のない痛みが——残った。
読者には分かるのだろう。この痛みの名前が。アシュタルには——まだ分からない。分からないふりをしている。商人は値のつかないものを棚に上げる。だがこの痛みは——棚に上げるには重すぎた。
夕飯を作った。今夜は羊の煮込みだ。香草を多めに入れた。アナトが辛いと言わないように、香辛料は控えめにした。
そう思った瞬間——自分の行動に気づいた。
アナトの好みに合わせている。
いつからだ。いつから、夕飯の味付けをアナトに合わせるようになった。
帳面に書けない項目が——もう一つ、増えた。
名前のない痛みと、名前のない配慮。
どちらも——帳尻が合わない。




