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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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印の痛み

 アナトがバアルに問うたのは、翌日の昼だった。


 アシュタルは神殿の廊下にいた。バアルに碑文の新断片を見せに来たのだが、奥間に入ろうとしたところで声が聞こえた。アナトの声。そしてバアルの声。


 足を止めた。


 盗み聞きをするつもりはなかった。だが——アナトの声の調子が、いつもと違った。高圧的でも苛立ちでもない。低く、慎重で、何かを恐れているような声。


「兄上」


「何だ」


「一つ訊きたい」


「珍しいな。お前が俺に問いを立てるのは」


「……黙って聞け」


 アナトらしい言い方だった。だが声の震えを、アシュタルの耳は拾った。


「人間に——情を移すと、どうなる」


 空気が変わった。


 廊下の温度が下がったような錯覚を覚えた。アシュタルは壁に背をつけたまま動けなかった。


 バアルの沈黙が長かった。


「……なぜ、そんなことを訊く」


「答えろ」


「先に理由を——」


「理由はない。知識として訊いている。禁忌の定義を——正確に知りたい」


 嘘だ、とアシュタルは思った。「知識として」などではない。アナトの声の震えが、それを証明していた。


 バアルの声が、低く、慎重になった。


「禁忌には——二つの帰結がある」


「二つ」


「一つは、人間の側に起きる。神が人間に本気の感情を向けると——神力が人間に流れ込む。人間の肉体は神力を受け止められない。少しずつ焼かれる。内側から」


 アシュタルの手が、無意識に右手首を握った。


「もう一つは——神の側に起きる。神が人間に執着すると、神の力が個人に集中する。本来、世界を動かすために存在する力が、一人の人間に向けられる。秩序が歪む。天候が乱れ、季節が狂い、世界の均衡が崩れる」


 天候の暴走。


 バアルの力の不安定さとは別に、天候が乱れている理由が——もう一つ、あるのかもしれない。


「つまり——」


 アナトの声が掠れた。


「神が人間を想えば、人間が焼かれ、世界が歪む」


「ああ」


「例外はないのか」


「俺の知る限り——ない」


 長い沈黙だった。


 アシュタルは壁に背をつけたまま、呼吸を殺していた。心臓が痛いほど鳴っていた。


 禁忌の定義。神が人間を想えば、人間が焼かれる。世界が歪む。


 つまり——アナトがアシュタルに感情を抱けば、アシュタルの体が壊れていく。そして世界が壊れていく。


 印の影響で声が掠れていく症状。あれは——印だけの問題なのか。それとも——。


 考えを打ち切った。推測が先走っている。帳簿に書ける事実だけを整理しろ。


「バアル」


 アナトの声が、固かった。


「なぜ——訊き返さないんだ」


「何を」


「なぜ訊くのか、と。お前なら訊き返すはずだ」


 バアルの沈黙が、また長かった。


 やがて——嵐の神の声が、静かに響いた。


「訊かない。お前が自分で答えを出すまで——俺は待つ」


「待つ、だと」


「ああ。お前は戦の女神だ。自分で決めた答えしか受け入れない。俺が言葉を先に出せば、お前はそれを剣で斬る。だから——待つ」


 アナトの息が漏れた。短い、鋭い呼吸。


「……兄上は——ずるい」


「ずるいのは商人に移った。俺はただの嵐だ」


 足音がした。アナトが奥間を出てくる。


 アシュタルは廊下の角に身を隠した。アナトが通り過ぎていった。赤い髪が揺れていた。顔は見えなかった。だが——足音が、いつもより速かった。逃げるような足取りだった。


 戦争の女神が——逃げていた。


 自分自身の中にあるものから。


 しばらく待ってから、奥間に入った。


 バアルが祭壇にもたれていた。腕を組み、天窓を見上げていた。


「聞いていたか」


 振り向かずに言われた。


「……すみません」


「謝るな。聞かれるのを承知で話した」


 アシュタルは驚いた。バアルが——わざと聞かせた?


「お前には知っておいてほしかった。禁忌の定義を」


「なぜ」


「お前がその——当事者だからだ」


 バアルの青い瞳が、アシュタルを見た。そこには——苦さがあった。兄としての苦さ。妹の感情に気づいていながら、止められない苦さ。


「アナトの感情が何であるかは、アナトが自分で決める。俺は口を出さない。だがお前は——知っておくべきだ。禁忌の代償を」


「代償。人間が焼かれる。世界が歪む」


「そうだ」


 アシュタルは帳面を開いた。


 禁忌の定義——神が人間に本気の感情を向けると、(1)神力が人間に流入し肉体を蝕む、(2)神の力が個人に集中し世界の秩序が歪む。


 書いた。帳面に書いた。


 だが帳面に書けない部分があった。


 アナトが「なぜ訊くのか」と訊き返されなかったとき、声が震えていたこと。バアルが「待つ」と言ったときの苦い表情。


 そして——アシュタル自身の心臓が、まだ痛いほど鳴っていること。


 粘土板の新断片を差し出した。


「これを見ていただきたかったんですが——」


「ああ。話を変えよう。そのほうがいい」


 バアルが粘土板を受け取った。


 話題は印の調査に移った。だが——二人の間に、禁忌の定義が影のように横たわっていた。


 バアルが粘土板の風化部分を読もうとしている間、アシュタルは帳面に書いた文字を見つめていた。


 禁忌の定義。二つの帰結。人間が焼かれる。世界が歪む。


 声の掠れは——印の影響だとバアルは言った。だがもし——もう一つの原因があるとしたら。アナトの感情が、すでにアシュタルの体に影響を与え始めているとしたら。


 考えすぎだ。推測に推測を重ねるのは商人の仕事ではない。事実を積み上げろ。帳尻を合わせろ。


 だが——事実は重い。


 アナトはバアルに訊いた。「人間に情を移すとどうなる」と。その問いの意味を、アシュタルは——もう読み違えようがなかった。


 神が人間を想えば、人間が焼かれる。


 アナトは——アシュタルを想い始めている。


 バアルは気づいている。アシュタルも気づいている。


 だが誰も——その名前を口にしない。


 禁忌は、まだ輪郭しか見えていなかった。だがアナトはその線の上に立っている。


 そして——アシュタルも。


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