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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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立ち寄り

 アナトが自分自身の感情に気づき始めたのは、おそらくこの頃だったのだろう。


 だがアシュタルにそれが分かったのは、もっと間接的な形だった。アナトの視線が変わった。以前は見下ろす視線だった。「人間」を見る目。道具を、あるいは虫を見る目。それが旅を経て「対等な存在」を見る目に変わった。だが最近は——さらに変わっている。視線が揺れる。目が合うと、ほんの一瞬だが、逸らす。戦争の女神が視線を逸らす。


 異常だった。


 その日、アシュタルは帳場で仕事をしていた。午後の日差しが窓から差し込み、帳面の上に格子模様の影を落としている。港の取引記録を整理しながら、頭の隅で別のことを考えていた。


 最近、アナトの行動パターンが変わっている。以前は一日中屋上にいた。海を見ていた。だが今は——時折、姿を消す。一時間、二時間。どこに行くのか訊いても答えない。帰ってきた時の表情が——険しい。何かと戦ってきた後のような顔。だが傷はない。物理的な戦いではない。


 自分自身との戦いだ。


 商人はそれを知っている。値段のつけられない商品を前にした時、商人は黙る。黙って、相場が動くのを待つ。だが待つ間に——相場は変わっていく。今のこの瞬間も。


 アナトはバアルのために旅をした。百五十日。冥界まで行った。兄を取り戻すために全てを賭けた。


 バアルは帰った。


 だがアナトは——バアルの傍ではなく、ここにいる。


 なぜか。


 契約がまだ終わっていない、とアナトは言った。印が消えていない。だから契約は完了していない。だからここにいる。


 嘘だ。


 契約の条件は「バアルの救出」だった。バアルは救出された。契約は完了している。印の解除は契約の範囲外だ。アナトがここにいる理由は——契約ではない。


 では何か。


 帳面を閉じて、窓の外を見た。屋上が見える角度だった。


 アナトがいた。いつもの場所。海を見ている。


 いや——今日は違った。


 アナトは海を見ていなかった。視線が下を向いていた。帳場の窓の方角。つまり——アシュタルがいる方角。


 目が合った。


 一瞬だった。アナトがすぐに顔を背けた。赤い髪が風に乗って揺れた。


 アシュタルは息を吐いた。


 帳面に書けない。これは帳面に書けない。


 夕方、屋上に上がった。


 アナトがいた。背を向けていた。


「アナト」


「何だ」


「一つ——訊いてもいいですか」


「一つだけだ」


 以前と同じやり取りだ。だがその声の温度が——変わっている。以前は苛立ちが混じっていた。今は——何か別のもの。警戒に近い。


「あなたは百五十日、バアルのために旅をした。バアルのために冥界まで行った。バアルのために戦った」


「それがどうした」


「バアルは帰りました。あなたの願いは叶った。——なのに、あなたはバアルの傍にいない」


 沈黙が落ちた。


 潮風が強くなった。アナトの赤い髪が激しく揺れた。


「……何が言いたい」


「いつから——バアルのためだけではなくなったんですか」


 声にした瞬間、後悔した。


 踏み込みすぎた。商人は相手の準備ができるまで値を言わない。だが——口が先に動いた。


 アナトが振り返った。


 金色の瞳が——燃えていた。怒りか。いや——怒りではない。もっと深い何か。恐怖に近い。自分自身の内側から溢れるものへの、恐怖。


「黙れ」


 短く、鋭く。


「お前に——お前に何が分かる。人間の分際で——」


 声が途切れた。


 アナトの目が揺れた。金色の瞳に——何かが浮かんだ。名前のない何かが。


「私はバアルのために旅をした。バアルのために戦った。それだけだ。それ以外の理由はない」


「アナト——」


「口を閉じろ」


 アナトが立ち上がった。屋上の縁を歩き、端に立った。背を向けたまま。


「いつからなどという問いに——答えはない。最初から最後まで、兄上のためだ。それ以外は——」


 言葉が途切れた。


 長い沈黙があった。


 アシュタルは立ち上がらなかった。追いかけなかった。


 商人は——追い詰めた取引相手からは、退く。追い詰めすぎると、取引そのものが壊れる。


「すみません。余計なことを訊きました」


 静かに言った。


 アナトは振り返らなかった。


「……勝手にしろ」


 小さな声だった。


 アシュタルは屋上を後にした。


 階段を降りながら、自分の手が震えていることに気づいた。


 壁に手をついた。冷たい石壁の感触が、指先から伝わった。呼吸が乱れていた。走ったわけでもない。戦ったわけでもない。ただ——言葉を交わしただけだ。数分の会話。数行の台詞。それだけで体が震えている。


 何に震えている。


 アナトの怒りにか。違う。アナトは怒っていなかった。あの声は怒りではなかった。


 では何にか。


 踏み込みすぎた。だが——アナトの目に浮かんだあの光を、見てしまった。怒りではなかった。恐怖だった。自分の内側にある何かに気づきかけている恐怖。


 それが何なのかを、アシュタルは——もう推測していた。推測していて、帳面に書けなかった。


 いつからバアルのためだけではなくなったのか。


 その問いは——アナトだけのものではなかった。


 アシュタル自身にも——同じ問いが、胸の奥で音を立てていた。


 だがまだ、答えは出さない。


 商人は——値が定まらない商品に、値をつけない。


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