二つの沈黙
神と食卓を共にするのは、考えてみれば異常なことだった。
だがアシュタルの家では、それが日常になりつつあった。
夕暮れ。台所で魚を焼いていた。鯛だ。市場で値切って買った。塩と香草をまぶして、炭火でじっくり焼く。母に教わった焼き方だ。火加減が難しい。強すぎると外が焦げて中が生になる。弱すぎると水分が飛んでぱさつく。
母は最近、台所に立つのが辛くなっていた。印の影響で体力が落ちている。だから夕飯はアシュタルが作ることが増えた。料理は得意ではない。だが不得意でもない。商人は何でもそこそこできなければ生き残れない。
「焦げてるぞ」
声がした。
振り返ると、アナトが台所の入口に立っていた。腕を組み、壁にもたれている。金色の瞳が魚を見ていた。
「焦げてません。これは焼き色です」
「同じだ」
「全然違います。焼き色は意図的なもので、焦げは失敗です。商売と同じです。赤字と投資は似ているようで——」
「黙れ。また商人の話か」
アナトが鼻を鳴らした。だが——台所から出ていかなかった。
最近、こうだ。アナトは食事の時間になると、どこからともなく現れる。「腹が減った」とは言わない。「食べたい」とも言わない。ただ台所の入口に立って、腕を組んで、料理の匂いを嗅いでいる。
神に空腹があるのかどうか、アシュタルには分からない。バアルは「神は食べなくても死なないが、食べることはできる」と言っていた。つまり必要ではないが可能だ、と。
ならば——なぜ食べるのか。
答えは訊かなかった。訊けば「うるさい」と返されるだけだ。
食卓を整えた。焼き魚、パン、オリーブの漬物、薄めた葡萄酒。質素な食事だ。商人の家の普段の夕飯。
父が帳場から出てきた。母が椅子に座った。ヤリムが駆けてきた。
そしてアナトが——当然のように、末席に座った。
戦争の女神が、商人の家の食卓に座っている。何千年もの歴史を持つ神が、焼き魚とパンの前に座っている。
異常だ。
だが誰もそれを指摘しなかった。父は最初こそ緊張していたが、三十日も経てば慣れた。母は最初からアナトを「お客さん」として扱った。ヤリムはアナトを「お姉ちゃん」と呼んで懐いている。
食卓が始まった。
アシュタルが魚を取り分けた。アナトの前にも置いた。アナトは何も言わずに箸をつけた。
一口。
二口。
三口目で——アナトの眉が微かに動いた。
「不味い」
「え」
「塩が足りない」
「そうですか。じゃあ塩を——」
「いらない。このまま食べる」
矛盾していた。不味いと言いながら、塩を足さずに食べ続ける。アシュタルはその矛盾を指摘しなかった。商人は矛盾の中に真意を読む。不味いと言って食べるのは——「不味い」が本題ではないからだ。
ヤリムが粘土板に書いた。差し出した。
「おねえちゃん おいしい?」
アナトが粘土板を見た。金色の瞳が文字を追った。
長い沈黙があった。
「……普通だ」
ヤリムが笑った。味の分からない弟が、アナトの「普通」を聞いて笑った。
アシュタルは——その光景を見て、帳面に書けない何かが胸の奥で動くのを感じた。
食事が進んだ。父が港の話をした。母が近所の噂を話した。ヤリムが粘土板に絵を描いた。猫の絵だった。アナトが絵を見て「何だこれは」と言った。ヤリムが「ねこ」と書いた。アナトが「猫には見えない」と言った。ヤリムがむくれた顔をした。
日常だった。
商人の家の、ありふれた夕食。
だがその日常の中に、戦争の女神が座っている。何千年もの時を生きた存在が、焼き魚を食べ、子供の絵を批評し、「不味い」と言いながら完食している。
異常な日常。
あるいは——日常に染まりつつある異常。
「お前の料理は毎回味が違うな」
食後、アナトが言った。
「仕方ないでしょう。料理人じゃないんですから」
「安定しないのは商人として失格ではないのか。品質管理ができていない」
「料理に品質管理を持ち出さないでください」
「味が分かるんですか、とでも訊きたそうな顔をしているな」
図星だった。
「神にも味覚はある。人間ほど繊細ではないが——ある」
「じゃあ——美味しいと思ったことは」
「……黙れ」
アナトが立ち上がった。食器を持って——立ち上がった。
食器を。
持った。
アシュタルは目を見開いた。
アナトが食器を流し場に運んでいた。戦争の女神が。食器を。
「何を見ている」
「いえ——」
「片付けくらいする。私を何だと思っている」
「戦争の女神だと思ってました」
「戦争の女神は片付けができないとでも言うのか」
「いえ、そういうわけでは——」
「うるさい。水はどこだ」
「そこの壺です」
アナトが食器を洗い始めた。ぎこちない手つきで。水を撥ね散らしながら。皿を割りそうな力加減で。
アシュタルは慌てて隣に立った。
「力入れすぎです。割れますよ」
「割れない。これくらいで割れる皿のほうが悪い」
「人間の皿は神力に対応してないんです」
「脆弱な文明だ」
並んで食器を洗った。神と人間が。
アナトの手が水に濡れていた。戦の紋様が刻まれた腕が、食器洗いの水に浸かっていた。双剣を振るう手が、皿を持っていた。
アシュタルは——その手を見てしまった。
見てしまって、帳面に書けない項目がまた一つ増えた。
食器を洗い終えた。
アナトは何も言わずに屋上に戻った。
一人になった台所で、アシュタルは流し場の水滴を拭いた。
アナトが使った布巾が、濡れたまま置いてあった。
神が人間と食卓を囲む。
それ自体が——禁忌の一歩なのかもしれない、と思った。
神が人間と食卓を囲む。食器を洗う。「不味い」と言いながら完食する。
その全てが——人間の生活に神を引き込んでいる。
だが禁忌の定義を、アシュタルはまだ知らなかった。
知らないまま——今夜も、アナトの分の夕飯を作った。明日も作るだろう。明後日も。
それが——どこに繋がるのかを知らないまま。




