嵐神の人間観
粘土板の破片は、ウガルの古い書庫の奥にあった。
アシュタルが碑文調査を再開したのは、バアルとの対話の翌日だった。印を消すには設計者に会う必要がある。設計者に会うには手がかりが要る。ペンダントの紋様は調べ続けているが、それだけでは足りない。もう一つの糸口が要る。
旅の初めに見つけた粘土板の破片。「生と死の——」で途切れていたあの文言。バアルが「生と死の境界に固定されている」と言った今、あの断片の続きを見つける意味は格段に大きくなった。
書庫はウガルの旧市街にある。エル神殿の隣の、半ば忘れ去られた石造りの建物だ。かつてはエルの神官たちが記録を管理していた場所だが、エル神殿が閉ざされて以降、管理者がいなくなった。扉は朽ちかけていて、押せば開く。誰も修繕しない。誰も気にしない。最高神の記録庫が打ち捨てられている——それ自体が、エルの不在の象徴だった。
アシュタルが初めてここに来たのは旅の前だった。あの時は「捧げもの」の意味を調べていた。あの頃は何も分かっていなかった。印が何を意味するのか。誰が刻んだのか。何のために。全てが闇の中だった。
今は——多少は見えている。見えているが、まだ足りない。「設計者」の手がかりを探している。
埃っぽい棚の間を歩いた。粘土板が並んでいる。数百枚。いや、千枚以上かもしれない。古いものは文字が風化して読めなくなっている。新しいものでも数百年前の記録だ。
帳面を開いた。以前の調査記録を確認する。「生と死の——」の破片を見つけた棚の位置。周辺の粘土板の配置。同じ時代、同じ書体の板があるはずだ。破片の続きが——どこかに。
棚の奥を探った。
埃が舞う。指先が粘土板の縁に触れた。一枚、二枚、三枚。文字を確認する。時代が違う。書体が違う。
四枚目。
手が止まった。
書体が——同じだった。
薄い光の中で目を凝らした。粘土板の表面に刻まれた楔形文字。風化しているが、読める部分がある。
「——の間に立つ者を」
心臓が跳ねた。
帳面を広げた。以前の破片の文言を書き出す。
「生と死の——」
そして今、見つけた破片。
「——の間に立つ者を」
繋がる。
「生と死の間に立つ者を」
その文言が——アシュタルの頭の中で、バアルの言葉と重なった。
印はお前を生と死の中間に固定している。生と死の間に立つ者を。
偶然ではない。設計だ。
呼吸を整えた。商人は興奮で判断を誤らない。冷静に。情報を整理しろ。
粘土板を光にかざした。「——の間に立つ者を」の後にも文字がある。だが風化が激しい。最後の数文字が——読めない。
目を細めた。一文字だけ、かろうじて判読できた。
「架」
架——何か。架ける。架け橋。架け渡す。
だが次の文字が読めない。推測はできるが、推測で帳簿はつけない。確証が要る。
粘土板を丁寧に布で包んだ。持ち帰る。バアルに見せれば、神の目で読み取れるかもしれない。
書庫を出た。
外は午後の日差しが強かった。エル神殿の前を通りかかった。閉ざされた扉。石の扉の隙間から、かすかに冷たい空気が漏れていた。管理者のいない神殿。最高神が隠居した後の、空っぽの建物。
だが——空っぽに見える場所にも、何かが残っていることがある。商人は空の倉庫を見れば、以前何が保管されていたかを壁の跡から読む。
帰宅して、帳面に記録した。
新発見——粘土板の新断片。「——の間に立つ者を」。前回の断片と接続すると「生と死の間に立つ者を」。後続文字は風化で判読困難。「架」の一字のみ確認。
そしてバアルの証言と照合した。
印の機能——生と死の境界に固定。粘土板の文言——生と死の間に立つ者を。
一致している。
つまりこの粘土板は——印の設計者が残した文書である可能性が高い。設計の意図を記録したもの。あるいは、設計の仕様書。
仕様書。
商人の感覚で言えば、契約書だ。契約には目的がある。条件がある。そして——当事者がいる。
この契約の当事者は——誰と誰だ。
設計者と、印を刻まれた者。つまりエル(推定)と、アシュタル。
だがアシュタルは契約に同意した覚えがない。生まれる前から刻まれていた印に、同意も何もない。
一方的な契約。
商人にとって、一方的な契約ほど気味の悪いものはない。対等でない取引は——どこかに罠がある。あるいは、見えない利益がある。だが商人の原則はもう一つある。一方的に見える契約にも、必ず相手方の利益がある。それを見つけ出すのが、商人の腕だ。
エルは何を得ようとしている。
アシュタルに印を刻むことで、何の利益を得る。
粘土板を見つめた。
「生と死の間に立つ者を」
この言葉は——誰のことだ。
アシュタルのことだ。状況証拠はそう言っている。
だが「何のために」立たされているのかは——まだ、読めない。
帳面を閉じた。
夕方になって屋上に上がった。
アナトがいた。
「見つけたのか」
振り向かずに訊いてきた。書庫に行くことは事前に伝えていた。
「粘土板の続きが見つかりました。『生と死の間に立つ者を』」
アナトの肩が動いた。微かに。
「生と死の間に立つ者」
「心当たりありますか」
長い沈黙があった。
「……ない」
嘘ではなかった。だが——何かを考えている沈黙だった。
「バアルに見せる。風化した部分を読めるかもしれない」
「そうしろ」
短い返事だった。だがアナトは——立ち上がった。屋上の縁から降りて、アシュタルの方を向いた。金色の瞳が粘土板を見ていた。
「それは——古いな」
「数千年前のものだと思います」
「数千年」
アナトの声に、微かな震えがあった。数千年前。アナトが生きていた時代。エルがまだ隠居していなかった時代。
「……持っていけ。兄上に見せろ」
アナトが背を向けた。
その背中が——いつもより、硬かった。




