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口だけの商人、神の戦争を生き抜く ~戦の女神が俺に本気なのは誤算だった~  作者: 蒼月よる


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三人の旅路

 バアルの声は、雷鳴のあとの静けさに似ていた。


 低く、落ち着いていて、確かな重みがある。嵐の神が語るとき、空気そのものが耳を傾けるような錯覚を覚える。アシュタルは商人として無数の声を聞き分けてきたが、バアルの声だけは値がつけられなかった。


 神殿の奥間に呼ばれたのは、昼過ぎだった。


「印について、あらためて話がある」


 バアルが切り出した。石造りの壁に嵐の紋様が刻まれた部屋。天窓から差し込む光がバアルの横顔を照らしている。帰還から三十日余り。痩せていた体躯には少しずつ筋肉が戻りつつあったが、右腕の雷の紋様はまだ薄い。


「前に診たときより、もう少し深く読み取れた」


「深く」


「ああ。力が少し戻った分、見えるものが増えた」


 バアルが右手を掲げた。掌から淡い青白い光が立ち昇った。嵐の神力の残滓。だがその光は——以前より、わずかに強い。


「あれは呪いではない。《《設計》》だ」


「それは——前に伺いました」


「だが設計の意味が、もう少し見えた」


 バアルの声が慎重になった。言葉を選んでいる。嵐の神が言葉を選ぶとき、雷が落ちる前の静電気のような緊張が空気に走る。


「印の構造は三層になっている。一層目は保護——お前を死から守る殻。二層目は記録——お前の存在を何かに繋げる紐。三層目は——」


「三層目は」


「鍵だ。まだ開いていない鍵。何かが条件を満たした時に開く」


 アシュタルは帳面を開いた。


「三層の設計。保護、記録、鍵。つまり——呪いどころか、手の込んだ仕掛けだ」


「そうだ。呪いなら一層でいい。壊すだけなら構造は要らない。だがこの印は三層を重ね、互いに補強し合っている。力任せに一層を砕けば、残りの二層がお前の魂を巻き込んで崩壊する」


「つまり、消すには三層全てを正しい手順で解く必要がある」


「お前の理解は正しい」


 バアルが頷いた。だが——その表情には、安堵ではなく苦味があった。嵐の神が苦い顔をするとき、こめかみの辺りに微かな雷光が走る。感情の揺れが神力に出る。バアルほどの存在でも、感情を完全に切り離すことはできないのだ。


 アシュタルはその雷光を見て、帳面に書かない情報を頭の中に仕舞った。バアルはこの話をすることに苦痛を感じている。知っていることを全ては言えない。言えないことがある。そして——言えないことの中に、核心がある。


「問題は手順だ。設計者が組んだ手順を、設計者以外が読み取ることは——ほぼ不可能だ。俺には一層目と二層目の構造は見えた。だが三層目の鍵の条件は、読み取れない。暗号化されている。設計者の神力でなければ復号できない」


「設計者に会うしかない、ということですね」


「ああ」


 前と同じ結論だ。だが今回は、なぜ設計者に会わなければならないかの理由が明確になった。力では解けない。手順が要る。手順は設計者しか知らない。


「バアル」


「何だ」


「設計者の話は——もう少し踏み込めますか」


 バアルの目が細まった。


「何が訊きたい」


「この印を設計できる存在の条件です。三層構造で、バアルでも読み取れない暗号化。カナアンの神々の中で、それができる者は——」


「一柱だ」


 バアルの声が低くなった。


「名は言わない。まだ確信がないからだ。だが——状況証拠は全て一つの方向を向いている。お前も分かっているだろう」


「分かっています。帳簿を足し合わせれば、答えは一つしかない」


 エル。


 その名前は、二人の間に漂っていたが、声にはならなかった。


 バアルが祭壇に手を置いた。


「もう一つ、分かったことがある」


「聞かせてください」


「印の二層目——記録の層。これはお前の存在を何かに繋いでいると言った」


「はい」


「繋いでいる先が——生と死の境界線だ」


 アシュタルの筆が止まった。


「生と死の境界」


「お前の印は、お前を生と死の中間に固定している。完全に生きているわけでもなく、完全に死んでいるわけでもない。だからモトの死の力にも、俺の嵐の力にも共鳴する。どちらにも繋がっている」


 生と死の中間。


 粘土板の断片が脳裏に浮かんだ。「生と死の——」。あの文言の続きは、まだ見つかっていない。だが今のバアルの言葉で、断片の意味が少し鮮明になった。


「生と死の中間に固定されている人間。それが——設計者の意図ですか」


「意図の一端だろう。全体像は分からない。だが——お前がこの位置にいることは、偶然ではない。設計されている」


 帳面に書き込んだ。


 印の構造——三層(保護・記録・鍵)。記録層は生と死の境界に固定。鍵の条件は暗号化済み。設計者のみ復号可能。


「バアル。最後にもう一つ」


「何だ」


「この設計は——善意ですか。悪意ですか」


 バアルが長い沈黙を落とした。


 天窓の光が角度を変え、壁の紋様に影が差した。


「設計に善悪はない。道具と同じだ。斧は木を割る道具だが、人も斬れる。この印も——使い方次第だ」


「使い方は、誰が決めるんですか」


「設計者か。あるいは——お前自身か」


 その言葉を、アシュタルは帳面に書かなかった。数字に変換できなかったからだ。


 代わりに、頭の中に刻んだ。


 使い方は——自分が決められるかもしれない。


 神殿を出た。午後の日差しが眩しかった。


 帰り道、屋上を見上げた。


 アナトがいた。いつもの場所。海を見ている。


 バアルの言葉が頭に残っていた。「生と死の中間に固定されている」。つまりアシュタルは——どちらの世界にも完全には属していない。人間の世界にも。神の世界にも。


 中間にいる。


 屋上にいるアナトも——中間にいるのかもしれない、とふと思った。神の世界と人間の世界の間。兄の傍と商人の家の間。


 帳面に書けない思考が、また一つ増えた。


 夕飯を作りながら、三層構造のことを考えた。保護、記録、鍵。三つの層が互いに補強し合っている。力では解けない。手順が要る。


 商人にとっては馴染みのある構造だった。複雑な契約ほど、解除には手順が要る。力で破棄すれば違約金が発生する。正しい手順を踏めば、双方にとって最善の結果になる。


 つまり——この印の設計者は、力による解除を望んでいない。正しい手順を踏むことを望んでいる。そしてその手順は——設計者にしか分からない。


 設計者に会わなければならない。


 それは分かった。問題は——設計者が誰であるか、そしてどこにいるかだ。


 台所から、焼き魚の匂いが立ち上った。日常の匂い。だがその日常の中で、アシュタルの頭は——数千年前の設計者のことを考えていた。


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