商人の計算
アナトが屋上にいる理由を、アシュタルは訊かなくなっていた。
訊いても同じ答えが返ってくる。「風が気持ちいいだけだ」。嘘だ。嘘だと分かっている。だが嘘を暴く気にはなれなかった。商人は嘘を見抜く生き物だが、見抜いた嘘を全て指摘するわけではない。相手が嘘をつく理由のほうが、嘘の内容より重要なこともある。
その日も、アナトは屋上にいた。
午前中は市場に買い出しに行き、帳場を手伝い、昼食を済ませた。午後になって帳面を持って屋上に上がった。別に用があったわけではない。帳面は下でも書ける。だが——なぜか足が屋上に向かった。
アナトがいた。
屋上の縁に腰かけ、海の方角を眺めていた。赤い髪が潮風にたなびいている。片膝を抱えた姿勢は昨日と同じだ。一昨日とも同じだ。
バアルの神殿は街の東にある。だがアナトが見ているのは西——海の方角だ。
兄の方角ではない。
アシュタルはその事実を帳面に書かなかった。書けば意味が生まれてしまう。数字にすれば問題になってしまう。まだ——問題にするには早い。
「……また来たのか」
アナトが振り向かずに言った。
「帳面を書きに来ました。風通しがいいんで」
「嘘をつくな」
「え」
「帳面を書くなら帳場でやれ。わざわざ屋上に来る理由はない」
痛いところを突かれた。商人が嘘を見破られるのは恥だ。
「……すみません。じゃあ正直に言うと、夕飯の相談です」
「相談するな。勝手にしろと言った」
「昨日も勝手にしたら『辛い』って文句言ったじゃないですか」
「辛くなかった。普通だった」
「あの量の香辛料で普通って、味覚どうなってるんですか」
「神に人間の味覚を問うな」
会話が続いた。何でもない会話。どうでもいい会話。夕飯の献立について神と人間が議論する——考えてみれば異常な光景だ。だが異常さに慣れてしまった。百五十日の旅がそうさせた。
アナトの隣に座った。少し距離を空けて。
海が見えた。午後の陽光が水面を金色に染めている。漁船の帆が点々と浮かんでいた。
「帰らないんですか」
口から出た言葉に、自分で驚いた。訊かないと決めていたのに。
アナトの肩が微かに強張った。
「何を」
「バアルのところに。力の安定化——手伝えることもあるんじゃないですか」
長い沈黙があった。潮風が二人の間を吹き抜けた。
「兄上のことは兄上が自分でやる。私が手を出す問題ではない」
「そうですか」
「そうだ」
嘘ではなかった。だが全てでもなかった。バアルの力の安定化にアナトが関与しない理由は、「兄上が自分でやる」からだけではない。アナトが兄の傍にいない理由は——もっと別のところにある。
アシュタルにはそれが見えていた。見えていて、言わなかった。
「じゃあ——ここにいる理由は」
「うるさい。風が気持ちいいだけだ」
三度目の同じ答え。
嘘だ。
戦争の女神が港町の夕風に留まるはずがない。何千年も嵐を駆けた存在が、屋上の縁に座って海を眺め続ける理由は「風」ではない。
では何か。
答えは——見えていた。見えていて、帳面に書けなかった。
アナトの金色の瞳が海を見ていた。だがその視線の焦点は海ではなかった。もっと近いところ——あるいは、自分自身の内側を見ているような目だった。何かを探しているような。何かを見つけたくないような。
戦争の女神が、自分の内側と戦っている。
アシュタルはその直感を、声にしなかった。
「……買い出し、行ってきます。魚にしますよ。昨日の肉が重かったんで」
「好きにしろ」
「何か食べたいもの——」
「ない」
「分かりました」
立ち上がった。屋上の入口に向かいかけて——ふと、振り返った。
アナトの背中が見えた。赤い髪が風に揺れている。片膝を抱えた姿勢。肩の線が——少しだけ、丸くなっていた。苛烈な戦女神の肩が。
何かを言いかけた。帳簿に書けない何かを。
だが——飲み込んだ。
階段を降りた。
市場への道を歩きながら、アシュタルは考えていた。
アナトは帰らない。バアルのもとに戻らない。屋上に座って海を見ている。「風が気持ちいいだけだ」と嘘をつく。
バアルが戻った。アナトが百五十日をかけて取り戻した兄が。だがアナトは兄の傍ではなく、商人の家の屋上にいる。
なぜか。
答えを——アシュタルは知りたかった。知りたくなかった。知ってしまったら、帳面に書かなければならなくなる。帳面に書けば、問題として処理しなければならなくなる。商人は問題を放置しない。
だがこの問題は——解き方が分からない。
市場に着いた。夕方の喧騒が耳に馴染む。魚売りの声。香辛料の匂い。果物の色彩。日常の色と音と匂い。
魚を買った。鯛が安かった。値切りながら、頭の隅で屋上のことを考えていた。
魚売りの親父が言った。
「若旦那、最近よく来るね。料理始めたのかい」
「まあ、色々あって」
「彼女にでも作ってやるのかい」
一瞬、返答に詰まった。
「……客人に出すだけです」
「客人ねえ。まあいいや。鯛はこの時期が旬だよ。明日はもっといいのが入る」
包みを受け取って歩き出した。
彼女に作ってやるのか。
魚売りの何気ない言葉が、耳の奥に引っかかった。違う。そういうことではない。食事を作るのは、母が体調を崩しているからで、アナトが食卓に座るのは——ただの成り行きで。
言い訳じみた思考を、自分で打ち切った。商人は自分自身に嘘をつかない。自分を騙す商人は、いずれ帳簿を誤る。
帰り道、空を見上げた。
雲が西から流れてきていた。風向きが変わっている。
嵐はまだ終わっていない。
空の嵐も。
屋上にいる女神の中の嵐も。




