揺れる天秤
ウガルに、仮の平穏が訪れていた。
バアルの帰還から三十日が過ぎた。天候の暴走は完全には収まっていないが、嵐の間隔が長くなり、晴れの日が続く期間が以前の倍になった。港は活気を取り戻しつつある。沖合の商船が増え、荷揚げの掛け声が波止場に響いていた。
アシュタルは帳場にいた。
父タグムの横に座り、取引記録を整理している。仕入れ値、売値、差益、在庫。半年の空白を埋める作業だ。アシュタルが旅に出ている間も商会は動いていた——父の手腕と、番頭の忠義と、母の根気で。だが数字は正直だった。利益率は旅の前の六割まで落ちている。嵐のせいで交易路が安定せず、仕入れが滞り、客足が遠のいた。
「帳尻は合うか」
父が訊いた。灰色の肌。印の影響は続いている。だが声は以前と同じ、商人の声だった。
「合います。赤字じゃないだけ上出来です」
「赤字じゃないのは母さんのおかげだ。俺は帳場に座ってるだけだった」
「座ってるだけでも、商会の看板は守れます。商人は店を開けていることが信用ですから」
父が鼻を鳴らした。息子の口が回ることを、半ば呆れ、半ば誇りに思っている顔だった。
帳面を閉じて外に出た。
昼下がりのウガルは穏やかだった。石畳の道を人々が行き交い、市場の喧騒が路地の奥から聞こえてくる。干し魚の匂い。焼きたてのパンの香ばしさ。子供たちの声。日常の音だ。
だが——その日常に、小さな影が混じっていた。
道端の壁に、嵐で剥がれた漆喰の跡がある。港に近い倉庫の屋根が一部潰れたままだ。修繕が追いついていない。バアルの力が安定しきっていないせいで、突発的な暴風が今でも時折吹く。昨夜も真夜中に強い風が吹いて、洗濯物が飛ばされたと隣家の女房が嘆いていた。
仮の平穏。
アシュタルはその言葉を、帳面の余白に書き留めた。
バアルが帰った。天候はやや安定した。だが「やや」だ。完全ではない。そして印は消えない。
右手首の布をめくった。銀色の円環紋様が、午後の陽光に淡く光っている。脈動は弱い。バアルの神殿から離れているからだ。だが消えてはいない。
印は消えない。バアルには消せない。設計者に会うしかない。
設計者——エル。
その名前を帳面に書いたのは、十日ほど前だった。以来、その名前の周りに情報を書き足し続けている。だが進展は遅かった。エルは隠居している。居場所を知る者はいない。手がかりはペンダントだけだ。
ペンダントの紋様を拡大して帳面に写し取ってみた。印の紋様と重ねてみた。似ている部分がある。同じ曲線、同じ角度。だが「似ている」では帳尻は合わない。確証がいる。
港の方へ歩いた。波止場の石段に腰かけて、海を眺めた。
空は晴れていた。だが北の方角に、灰色の雲の塊が見えた。バアルの力の残滓か、あるいは次の暴走の前兆か。天候の安定は——保証されていない。
二日前にも突発的な暴風があった。夜明け前に突然風が変わり、港に停泊していた穀物船のロープが三本切れた。船は無事だったが、積荷の一部が海に落ちた。穀物商のハビルが「天災の保証をどうするんだ」と帳場に怒鳴り込んできた。アシュタルが茶を出して話を聞き、損害の半額を折半する提案をして収めた。商人の仕事だ。嵐が来ても来なくても、帳面は動く。
だが帳面に書けない損害もあった。
天候が不安定だという事実そのものが、ウガルの信用を蝕んでいる。商船は安全な港を選ぶ。嵐がいつ来るか分からない港には寄りたがらない。取引先からの書簡にも「状況が安定するまで出荷を見合わせたい」という文面が増えている。目に見える被害より、目に見えない信用の毀損の方が——長い目で見れば痛い。
「アシュタル兄ちゃん!」
声がした。振り返ると、弟のヤリムが走ってきた。小さな体。日に焼けた顔。口元は笑っている。
ヤリムが隣に座った。粘土板と葦筆を抱えている。文字の練習だ。母に言われて毎日やっている。味覚を失ってから、ヤリムは代わりに文字を覚え始めた。言葉で伝えられないものを、書いて伝えるために。
ヤリムが粘土板を差し出した。
書いてあった。
「うみ きれい」
アシュタルは笑った。
「ああ。綺麗だな」
ヤリムが何か言おうとして、口を開いた。だが声は出なかった。代わりに、また粘土板に書いた。
「あに げんき?」
「元気だよ」
嘘ではなかった。体は元気だ。冥界の旅で消耗した体力は回復しつつある。食事も取れている。睡眠も取れている。
だが——帳面に書けない項目が、増えている。
声の問題がある。旅の後半から、声が掠れやすくなっていた。長く話すと喉の奥が痛む。帳場で客と話す時間が長いと、夕方には声が出にくくなる。印の影響だとバアルは言った。「お前の体は少しずつ消耗している。印が存在に食い込んでいるからだ」と。
食い込んでいる。魂の一部。
ヤリムが粘土板にまた書いた。
「あの おねえちゃん は?」
お姉ちゃん。ヤリムはアナトをそう呼んでいる。戦争の女神に「お姉ちゃん」はどうかと思うが、アナトは訂正しなかった。訂正しなかったこと自体が——変化だ。
「屋上にいるんじゃないか」
ヤリムが頷いて、走っていった。
一人になった。
海を眺めた。波が穏やかに寄せている。漁船が沖から戻ってきていた。日常の風景。仮の平穏。
印は消えない。
声は少しずつ掠れていく。
設計者の意図は分からない。
だが——今日は晴れている。弟は笑っている。父は帳場にいる。母はパンを焼いている。
仮の平穏でも——平穏は平穏だ。
帳面を開いた。今日の記録を書き始めた。
天候——晴れ、北に雲あり。港の出入り——商船三隻入港。取引——オリーブ油二十壺、麻布十反。家族——変化なし。印——変化なし。
そして最後に——小さく書き足した。
アナト——屋上。
理由は書かなかった。書けなかった。
帳面を閉じた。
仮の平穏の中で、帳尻の合わない項目が、静かに増えていく。




