恵みと災い
その夜、アシュタルは屋上にいた。
星が出ていた。嵐の間は見えなかった星が、バアルの力の安定化に伴って、少しずつ夜空に戻ってきている。海の方角に金星が輝いている。商人の星。航海の目印。幼い頃、父に教わった。あの星が見える夜は、船が安全に港に入れる夜だ、と。
帳面を膝に開いていた。新しいページ。
書くべきことは多い。百五十日の旅の総決算。バアル帰還。天候暴走の部分的安定化。ウガルの被害状況。家族の現状。そして——印が消えないという事実。
全てを数字と文字に変換していく。商人の作業。感情を帳簿に変える作業。
だが今夜は——筆が重かった。
印は消えない。
バアルには消せない。刻んだのはバアルではない。
この印は「設計」されたもので、条件を満たさなければ消えない。条件は設計者しか知らない。設計者は——カナアンの神々の中で最も古く、最も強い存在。
エル。
その名前を、帳面に書いた。初めて。
エル。最高神。カナアンの創造者。隠居したとされる存在。バアルの父。アナトの父。全ての始まり。
バアルは名前を出さなかった。だがアシュタルの推理は、もうこの名前以外を指さない。
帳面に書き加えた。
印の設計者——エル(推定)。
根拠——バアルより古く強い。印の精緻な設計が可能。バアルが名を避ける態度。モトの示唆「あなたを見ている者」。銅のペンダントに「古い契約の匂い」(バアル証言)。
状況証拠ばかりだ。物証はない。だが商人の勘は——もう確信に近い。
問題は、エルに会う方法だ。隠居した最高神。誰も居場所を知らない。アシェラなら知っているかもしれないが、アシェラはカナアンの果てにいる。
銅のペンダントが手がかりになるとバアルは言った。古い契約の痕跡。その痕跡を辿れば、設計者に近づける。
ペンダントを取り出した。月明かりに銅の表面が鈍く光った。細かな紋様。これまで何度も眺めたが、意味は分からなかった。だが——今日、バアルの言葉を聞いた後で見ると、紋様の一部が印の紋様と似ている気がした。同じ曲線。同じ角度。同じ——設計思想。
気のせいかもしれない。目が情報を求めすぎて、ないものを見ている可能性もある。だが帳面に記録しておく。
ペンダント紋様——印との類似性あり(要検証)。
「眠れないのか」
声がした。
振り返った。
アナトが屋上の縁に座っていた。いつの間に。足音は聞こえなかった。当然だ。戦女神の足音を人間が聞き取れるはずがない。
「考え事をしていただけです」
「帳面を広げて星を見ているのは、考え事とは言わない。悩んでいるだけだ」
否定できなかった。
「悩んでますよ。帳尻が合わない」
「帳尻」
「印は消えない。バアルには消せない。設計者は——たぶん、僕たちが思っている通りの存在です。でもその存在に会う方法が分からない。手がかりはペンダントだけ。足りない。情報が圧倒的に足りない」
アナトは黙って聞いていた。
「百五十日かけてバアルを連れ戻して——それで全部解決すると思ってました。甘かった。甘い見積もりだった。弟の味覚を取り戻すどころか、問題は大きくなっている」
「弱音を吐いているのか」
「吐いてます。たまには吐かせてください」
アナトが——少しだけ、目を見開いた。
アシュタルが弱音を吐くのは珍しい。いつも軽口を叩き、皮肉で武装し、帳面を盾にしている。弱さを見せない。弱さを見せたのは——弟を抱いて泣いたあの時だけだ。
「……勝手にしろ」
アナトの声は低かった。だが——追い出さなかった。
二人は屋上に座っていた。星の下で。潮風の中で。
長い沈黙があった。
沈黙は——不思議と、苦しくなかった。以前のアナトの沈黙は刃のようだった。近づけば切れる沈黙。だが今夜の沈黙は——そうではなかった。隣にいることを許す沈黙。
「アナト」
「何だ」
「あなたはバアルが戻って——嬉しかったですか」
アナトの肩が動いた。微かに。
「愚問だ」
「愚問ですね。すみません」
「……嬉しかった」
小さな声だった。戦争の女神の声とは思えないほど、小さな声。
「兄上が戻ったことは——ずっと望んでいた。何千年も。冥界に一人で乗り込もうとしたこともある。力尽くでもと思った。——だが、できなかった」
「力尽くでは、解決しなかった」
「ああ。お前に言われなくても分かっている」
アナトが膝を抱えた。赤い髪が風に流れた。月光に照らされた横顔は——静かだった。戦女神の苛烈さが消え、ただの——何かを抱えた一人の存在になっていた。
「嬉しかった。兄上が戻って。だが——」
言葉が途切れた。
「だが?」
「……何でもない」
嘘だ。
商人の目がそう言っている。アナトは何かを言いかけて、飲み込んだ。バアルが戻って嬉しかった。だが——何かが、以前と違う。何かが足りない。何かが変わってしまった。バアルの隣にいるはずの場所に、以前と同じ感覚で立てない。
それが何なのかを、アシュタルは推測できた。推測できてしまった。
だが——口にしなかった。
商人は相手の準備ができるまで値を言わない。
「もう一つ訊いていいですか」
「一つだけだ」
「印が消えなくて——あなたが契約を理由にここにいてくれるなら、僕は助かります。でも——いつか契約が終わったら、あなたはどこに行くんですか」
長い沈黙だった。
潮風が強くなった。海の方角から、夜の風が吹いてきた。アナトの赤い髪がなびいた。金色の瞳が——揺れた。
「知らない」
その三文字は、嘘ではなかった。
本当に知らないのだ。何千年も戦場を駆けてきた戦女神が、次にどこへ行くか分からない。バアルが戻った。兄のそばに戻るのが自然だ。だが——戻れない。戻りたくないのではない。戻っても、以前と同じ場所に立てないのだ。
「……うるさい。もう訊くな」
アナトが立ち上がった。
「眠れないなら好きに悩んでいろ。私は——」
言葉が途切れた。
アナトは——一瞬だけ、アシュタルを見下ろした。月光の中で。金色の瞳が——何かを言おうとして、言わなかった。
背を向けた。屋上の縁を歩き、塀の向こうに消えた。戦女神の身体能力なら、二階の屋上から飛び降りるのは歩くのと変わらない。
一人になった。
帳面に目を落とした。
エル(推定)。印の条件。ペンダントの手がかり。バアルの力の不完全さ。ヤリムの味覚喪失。モトとの契約の残余。
そして——アナトの「知らない」。
帳面に書けない項目が増えていく。
星空を見上げた。金星が海の上で輝いている。
印は消えない。刻んだのはバアルではない。
では——誰が。
答えは、もう分かりかけていた。だが答えに辿り着くまでの道のりは、冥界への旅路よりも長いかもしれない。
帳面を閉じた。
明日から——新しい帳面を開く。
百五十日の旅は終わった。だが物語は終わらない。印を消す旅が、始まる。
商人は次の取引のために、今日の帳面を閉じる。
そして明日の帳面を開く。
それが——生きている限り、続く仕事だ。




