嵐の王の帰還
バアルが印の解除を試みたのは、帰還から三日目の夕刻だった。
神殿の奥間。天窓から差し込む夕日が石壁を橙に染めている。バアルが祭壇の前に立ち、アシュタルがその正面に立った。アナトは壁際にいた。腕を組み、金色の瞳で二人を見つめている。
「右手を出せ」
バアルの声は落ち着いていたが、慎重さがあった。言葉を選んでいる。
アシュタルは右手首の布を解いた。銀色の円環紋様が露わになった。夕日の光を受けて、紋様が微かに脈動している。バアルの近くにいると反応する。嵐の神の神力に共鳴しているのだ。
「印に触れる。痛みがあるかもしれない」
「覚悟はできてます」
「覚悟の問題ではない。痛みの閾値を超えたら止めろ。我慢するな」
「商人は値段交渉で我慢するのが仕事です」
「値段の話ではない」
バアルの右手がアシュタルの手首に触れた。
瞬間——印が光った。銀色が白に変わり、白が青に変わった。バアルの雷の紋様と、アシュタルの印が共鳴している。二つの紋様が同じ周波数で脈動し、光の波紋が手首から腕に広がった。
痛みは——なかった。代わりに、奇妙な感覚があった。身体の内側を、何かが流れている。水ではない。風でもない。力だ。バアルの神力が、印を通じてアシュタルの体内に流れ込んでいる。
「動くな」
バアルの声が低くなった。集中している。青い瞳が印に注がれていた。嵐の神の目が——何かを読み取ろうとしている。印の構造を。設計を。
長い時間が経った。
バアルの額に汗が浮かんだ。いや、神力の結露だ。全力で印の構造を解析している。
そして——バアルの表情が、変わった。
困惑ではなかった。驚愕でもなかった。もっと深い何か。諦め——いや、確認。予想していたことが確認された時の、苦い表情。
バアルが手を離した。
印の光が消えた。銀色に戻った。何も変わっていない。
「……消せない」
バアルの声は静かだった。
「消せない?」
「この印は——俺が刻んだものではない。だから、俺には消せない」
分かっていた。以前、バアルは印が「設計」されたものだと言った。壊す目的ではなく、何かを成すための設計。精緻で美しい構造。バアルに消せるはずがない——と、商人の勘は告げていた。
だが「分かっていた」ことと、「確認した」ことは違う。帳簿上の赤字を予想していても、実際に数字を見ると胃が痛むのと同じだ。
「刻んだのが——あなたではないなら」
「ああ」
「誰が刻んだんですか」
バアルが目を閉じた。
先日と同じ沈黙。長い沈黙。天窓の夕日が角度を変え、祭壇の影が伸びた。
「言えない——のではない。確信が持てないんだ。だが状況証拠は——一つの名前を指している」
「その名前は」
「俺よりも古く。俺よりも強く。印をこれほどの精度で設計できる者は——カナアンの神々の中に、一柱しかいない」
アシュタルの心臓が跳ねた。
知っていた。もう推測はついていた。帳面に書き留めた手がかりを全て足し合わせれば、答えは一つしかない。モトの言葉。バアルの示唆。印の構造の精緻さ。数千年の歴史を持つ存在。
エル。
最高神エル。カナアン神族の父にして創造者。隠居したとされる、全ての始まりの神。
口にしなかった。バアルが名前を出さなかった。こちらも出すべきではない。まだ帳尻が合わない。推測だけで取引はしない。
「一つ——もう一つ、分かったことがある」
バアルの声が重くなった。
「印の中に——条件がある」
「条件」
「鍵と錠のようなものだ。ある条件が満たされた時に、印は自ら開く。力で破るのではなく——条件を満たせば、自然に解除される。だがその条件が何かは——俺には読み取れなかった。設計者にしか分からない」
条件付き解除。力では消せない。だが条件を満たせば消える。
商人の頭が動いた。これは——契約と同じだ。契約には条件がある。条件を満たせば契約は完了する。力で破棄するのではなく、条件を履行して終了させる。
「つまり——印を消すには、設計者に会って条件を聞く必要がある」
「そういうことになる」
「設計者は——あなたの言う、古くて強い存在」
「ああ」
アシュタルは帳面を開いた。
新しい情報を書き込んだ。印は条件付き。条件は設計者のみが知る。設計者に会う必要あり。
そして——帳面を閉じた。
「アナト」
壁際にいたアナトに声をかけた。
アナトは黙ったままだった。腕を組み、二人のやり取りを聞いていた。金色の瞳には——複雑な光があった。
「聞いていたか」
バアルがアナトに訊いた。
「聞いていた」
「どう思う」
「……兄上には消せない。設計者に会うしかない。——それは分かった」
アナトの声は平坦だった。だが——その平坦さの下に、何かが渦巻いている。
「だが——」
アナトがアシュタルを見た。
「諦めるな」
短い言葉だった。
アシュタルは目を瞬いた。
「諦める?」
「お前が今、帳面の数字を見て計算しているのは分かっている。条件が不明。設計者が不明。解除方法が不明。全てが不明だ。——それでも諦めるな」
「諦めませんよ。商人は——」
「商人の話はいい」
アナトが遮った。
声が——少し、震えていた。
「契約の話でも、取引の話でもない。お前が——お前の弟に約束したのだろう。甘いものを買ってくると。味を取り戻すと。約束したなら——守れ」
アシュタルは黙った。
アナトの金色の瞳が——真っ直ぐにアシュタルを見ていた。いつもの高圧的な視線ではなかった。もっと切実な——何かを見つめるような目だった。
弟を抱いて泣いているアシュタルを、この戦女神は見ていた。味のない蜂蜜菓子を「おいしい」と書いた弟を見て、兄が泣いた姿を。
それを見て——アナトの中で、何かが動いたのだ。
「諦めません」
アシュタルは答えた。
「最初から諦めるつもりはありません。印を消す方法は見つけます。設計者が誰であれ、会って交渉します。条件を聞き出し、履行します。——商人は、どんな取引でも成立させます」
「……結局、商人の話か」
アナトが鼻を鳴らした。
だが——その声には、いつもの苛立ちはなかった。
代わりにあったのは——安堵、だろうか。この男は折れない。諦めない。味のない蜂蜜菓子の前で泣いても、立ち上がって帳面を開く。その確認が——アナトにとって、何か大切なものだったのかもしれない。
バアルが祭壇に背を預けた。
「俺にできることは限られている。だが——手がかりは渡せる」
「手がかり?」
「ペンダントだ。お前の父が持っていた銅のペンダント。あれには——古い契約の痕跡がある。その痕跡を辿れば、設計者に近づける可能性がある」
銅のペンダント。祖父の形見。父が「分かった時に教えてくれ」と渡してくれたもの。
あれが——手がかりになる。
「調べます」
「急ぐな、とは言わない。だが——慎重にやれ。設計者に辿り着くということは、設計者もまたお前に気づくということだ」
その警告の意味を、アシュタルは理解した。
こちらが動けば、向こうも動く。取引の場に出れば、相手もまた取引の場に出る。
だが——それでいい。相手が出てこなければ交渉はできない。交渉ができなければ、条件は聞き出せない。条件が分からなければ、印は消えない。
神殿を出た。
夕闘の空に星が瞬き始めていた。西の空に残る橙色が薄れ、藍色が広がっていく。
アナトが隣を歩いていた。いつもの距離。近すぎず、遠すぎず。
「アナト」
「何だ」
「あなたは——なぜ、まだここにいるんですか」
足音が止まった。
アシュタルの足音も止まった。
長い沈黙があった。夕風が二人の間を通り抜けた。
「契約はまだ終わっていない」
アナトの声は低かった。
「バアルを連れ戻すまでが契約だった。バアルは戻った。でも——印が消えていない。印が消えなければ、お前の一族は救われない。お前の一族が救われなければ——」
「契約は完了していない、と」
「……そうだ」
嘘だ、とアシュタルは思った。
契約の条件は「バアルの救出」だった。バアルは救出された。契約は完了している。印の解除は契約の範囲外だ。アナトがここにいる理由は、契約ではない。
だが——追及しなかった。
商人は相手の準備ができるまで値を言わない。
「そうですか。なら——もう少し、付き合ってもらえますか」
「……勝手にしろ」
アナトが歩き出した。
アシュタルもその後に続いた。
印は消えない。バアルには消せない。刻んだのはバアルではない。
では——誰が。
その問いが、夕闇の中で、静かに重みを増していた。




