暴風の兆し
百五十日目の朝が来た。
目が覚めた瞬間、天井の染みの数を数えていた。七つ。出発前と変わっていない。変わったのは天井ではなく、この天井を見上げている自分のほうだ。
体を起こした。自分の部屋。狭い部屋。机と椅子と棚。帳面が積まれた棚。旅に出る前と同じ配置。母が埃を払ってくれていたのだろう。半年の不在を感じさせない清潔さだった。
右手首の布をめくった。銀色の円環紋様が、朝の光に鈍く輝いている。消えていない。昨日も一昨日も確認した。毎朝確認している。消えないと分かっていても確認する。商人は帳簿を毎日確認する。残高が変わっていなくても。
百五十日。
父との約束の期限だ。百五十日以内にバアルを見つけて連れ帰る。連れ帰れなければ、モトの条件を飲む。それが出発の日に交わした取引だった。
バアルは連れ帰った。期限内に。約束は果たされた。
だが——印は消えていない。
階段を降りた。帳場を抜け、裏口から外に出た。朝の空気が頬に触れた。潮の匂い。昨日バアルが降らせた雨のおかげで、空気が澄んでいる。
母がいた。
裏庭の井戸端で、洗濯物を絞っていた。小柄な背中。出発前よりさらに小さくなったように見えた。髪は白くなり、手の動きは緩慢だった。だが——洗濯をしている。日常の作業を続けている。それが母の強さだった。
「母さん」
声をかけた。
母が振り返った。穏やかな顔。だが目の下の隈は深く、頬はこけていた。印の影響は母にも及んでいる。直接の症状は軽いが——家族の看病と心労が、体を蝕んでいた。
「おはよう。朝ご飯、もうすぐできるから」
いつもの言葉だった。半年前と同じ言葉。「もうすぐできるから」。母はいつもそう言った。台所に立ち、家族に食事を出す。味覚を失った息子にも、灰色の肌の夫にも、同じ食事を出す。味が分からなくなっても、食卓に家族を集める。それが母のやり方だった。
「母さん。今日で百五十日です」
母の手が止まった。
「バアルを連れて帰りました。約束は果たしました」
母が洗濯物を桶に戻した。手を拭き、アシュタルのほうを向いた。
「そうね」
柔らかい声だった。だが——その声の奥に、何かが潜んでいた。
「よく頑張ったね」
母の手がアシュタルの頬に触れた。冷たい手だった。以前の母の手はもっと温かかった。台所の火で温まった手。今は——温度が足りない。
「ありがとう。帰ってきてくれて」
母が微笑んだ。それは本物の微笑みだった。息子の帰還を喜ぶ、母親の笑顔。
だが——次の瞬間、母の目がアシュタルの右手首に向いた。
布の隙間から、銀色の光がかすかに漏れていた。
「印は——まだ、消えていないのね」
静かな声だった。
責めてはいない。問い詰めてもいない。ただ——事実を確認している。母もまた、毎日確認していたのだろう。息子の手首を。家族の体に浮かぶ紋様を。消えないことを、毎日確認していたのだろう。
「はい。まだ消えていません」
「バアル様を連れて帰れば、消えると思っていたのでしょう」
「はい」
「でも——消えなかった」
「消えませんでした」
母が深く息を吸った。細い肩が上がり、下がった。
「あなたは約束を果たしたわ。百五十日で帰ってきた。バアル様も連れてきた。父さんとの約束は——」
「果たしました」
「そうね。でも——」
母が言葉を切った。目に光るものがあった。
「でも、一番大事なことが——まだ、終わっていない」
アシュタルは何も言えなかった。
母の言う通りだった。約束は果たした。バアルを連れ帰った。百五十日の期限も守った。だが一番大事なこと——一族を救うこと——は、まだ達成されていない。印が消えなければ、ヤリムの味覚は戻らない。父の肌は灰色のままだ。母の手は冷たいままだ。
バアルを連れ帰ることは手段であって目的ではなかった。目的は、印を消すこと。一族を「生ける死人」から解放すること。その目的は——達成されていない。
「母さん」
「なに」
「必ず——消します」
母が目を閉じた。
「知ってるわ。あなたはそう言うと思った」
洗濯物を持ち上げ、物干しに向かった。小さな背中が朝日に照らされている。
「朝ご飯、食べなさい。今日は——ヤリムの好きだった、蜂蜜入りのパンよ」
好きだった。過去形。味が分からなくなった弟が「好きだった」パン。母はそれを、今も焼いている。味が分からない息子のために、味を込めた料理を作り続けている。
台所に入った。焼きたてのパンの匂いがした。蜂蜜の甘い香り。
アシュタルはその匂いを嗅いで——一瞬、足が止まった。
甘い匂い。確かに甘い匂いだ。だが——以前ほど、鮮明ではない気がした。気のせいかもしれない。鼻が旅で鈍っているだけかもしれない。
冥界で差し出した味覚記憶。母の料理の味。あの記憶を代償にした。味覚そのものは失っていないはずだ。記憶を差し出しただけで、舌の機能は残っている。だが——記憶と感覚は繋がっている。母の料理の味を忘れた舌が、母の料理の匂いを完全に感じ取れるだろうか。
パンを手に取った。一口齧った。
甘い。蜂蜜の甘さ。小麦の香ばしさ。——ある。味はある。感じられる。
だが——心の奥で、何かが足りないと訴えていた。味はある。だが味の《《意味》》が薄い。「母の焼いたパンの味」という記憶の厚みが、以前より減っている。味覚の数値は同じでも、味に付随する感情の色が——褪せている。
帳面には書かない。書けない種類の損失だ。
食卓に着いた。ヤリムが隣に座った。弟も蜂蜜パンを齧っている。味は分からないはずだ。だが噛んでいる。噛む動作そのものが、食事という行為を繋ぎとめている。
父タグムが帳場から顔を出した。
「今日で百五十日だな」
「はい」
「約束通り、帰ってきた。バアルも連れてきた。——契約は履行された」
父の声は淡々としていた。だが——次の言葉の前に、また間があった。
「次の契約を結べ」
「次の?」
「印を消す。一族を救う。それが次の契約だ。期限は——お前が決めろ」
アシュタルは父の目を見た。
タグムの目は厳しかった。だがその厳しさの奥に——信頼があった。息子が次の約束を果たすと信じている目。
「期限は——」
「お前が決めろ。俺が決めるものじゃない。自分で期限を切れ。商人は期限のない取引はしない」
その通りだった。
帳面を開いた。新しいページ。白い紙面に、筆を走らせた。
契約事項——印の解除。一族の感覚回復。
期限——。
筆が止まった。
いつまでに。何日で。百五十日の旅で学んだことが一つある。期限は長ければいいわけではない。短すぎれば無謀で、長すぎれば弛緩する。適切な期限は——覚悟の量で決まる。
まだ書けなかった。期限を決めるには、まず方法を知らなければならない。印を消す方法が分からないのに、期限だけ切るのは空手形だ。空手形は商人の恥だ。
「期限は——方法が見つかったら、切ります」
父が眉を上げた。
「方法が見つかるまでは期限なし、か」
「いいえ。方法を見つけること自体に期限を切ります。印を消す方法の調査に——三十日。三十日で方法が見つからなければ、別の手段を探す」
父が頷いた。
「それでいい。——食え。パンが冷める」
パンを齧った。蜂蜜の味がした。確かに甘い。
だが隣のヤリムは、味のないパンを噛んでいる。笑顔で。
その笑顔を見ながら、アシュタルは帳面に書き足した。
百五十日の契約——履行完了。次の契約——開始。




