最初の雷
ウガルの神殿は港を見下ろす丘の上にあった。
石灰岩を積み上げた質素な建物だ。大都市の神殿に比べれば小さい。だがウガルの民にとって、この神殿は港と同じくらい大切な場所だった。嵐の神バアルに豊漁と航海の安全を祈る場所。漁師が出航前に立ち寄り、商人が大きな取引の前に手を合わせる場所。
その神殿に、バアル本人が立っていた。
翌朝、アシュタルはバアルに同行して神殿を訪れた。アナトも一緒だ。三人で丘を上る間、バアルは無言だった。帰還してから——正確には、ウガルの被害を目の当たりにしてから、バアルの口数がさらに減っていた。
神殿の扉は閉ざされていた。嵐の被害で屋根の一部が崩れ、神官たちは避難している。今は無人だ。
バアルが扉に触れた。右手を石の扉に当てた。紋様が——かすかに光った。嵐の神の力が、神殿の石に刻まれた古い紋様に反応している。
扉が、音もなく開いた。
「入るのか」
アナトが訊いた。
「ああ。——試してみたいことがある」
神殿の内部は薄暗かった。天窓から差し込む光の筋が、石の祭壇を照らしている。壁には嵐の紋様が彫り込まれていた。稲妻。雲。雨。バアルの力を象徴する意匠が、数百年の時を経てなお壁面に残っている。
バアルが祭壇の前に立った。
「ここで——力を解放してみる」
「解放?」
アシュタルが眉を上げた。解放という言葉は、暴走の記憶と結びついている。地上に出た瞬間の雷鳴。制御不能の暴風。紅い夕焼け。
「暴走するのではなく——段階的に解放する。お前の言った『流通管理』だ。一度に全ての力を放つのではなく、少しずつ。この神殿は俺の力に共鳴する設計になっている。増幅器として使える。ここなら——多少は制御しやすい」
なるほど、とアシュタルは思った。商売で言えば、卸売りではなく小売りだ。一度に大量の品を出荷するのではなく、小口に分けて流通させる。在庫管理の基本。
「危険は」
「ゼロではない。だが、野外でやるよりは遥かにましだ」
バアルが目を閉じた。
両腕を広げた。右腕の雷の紋様が——光り始めた。灰色にくすんでいた紋様が、白く、青白く。光が腕から胸に広がり、首筋に達した。嵐の神の全身が淡い光を帯びた。
空気が変わった。
神殿の中の空気が、一瞬で湿度を増した。石壁に水滴が浮かんだ。天窓から差し込む光の筋が揺らいだ。外の空に——雲が集まり始めている。
バアルの唇が動いた。古い言葉。神々の言語。アシュタルにも断片的に理解できる。
——来い。静かに。少しずつ。
雷が鳴った。
だが——遠い雷だった。頭上ではなく、水平線の彼方。海の向こうで、かすかに空が光った。嵐の力が、バアルの意志で海の方角に誘導されている。
雨が降り始めた。
神殿の天窓から、細い雨が差し込んだ。穏やかな雨。暴風雨ではない。畑を潤す雨。船を沈めない雨。
アシュタルは目を見張った。
制御できている。完全ではないが——制御できている。嵐を呼ぶのではなく、雨を呼んでいる。力の「量」を絞り、「質」を変えている。
だが——バアルの表情は苦悶していた。
額に汗が浮かんでいる。いや、あれは汗ではない。神力が結露したものだ。嵐の神が力を制御するために、全身全霊を費やしている。制御とは、暴れる力を押さえ込むことだ。押さえ込むには、暴れる力以上のエネルギーが必要になる。バアルが保有する力は帰還の時点で全盛期の七割五分——だが冥界滞在の後遺症が制御経路を蝕んでいた。力の流れを束ねる内側の回路が不安定で、実際に意図通り動かせるのは全盛期の三割に留まる。三割の力で十割の暴走を押さえ込もうとしている。
バアルの首筋の血管が浮いていた。両足が祭壇の石畳を踏みしめ、踵がわずかに沈み込んでいる。歯の隙間から漏れる呼吸は、力を入れる時の呼吸だ。剣を振るう戦士のそれではなく、重い荷を背負い続ける人夫のそれに似ていた。嵐神は今——自分自身という荷を背負っている。
「兄上——」
アナトが一歩踏み出した。赤い髪が静電気で逆立っている。神殿内の空気が帯電している。
「無理をするな」
「無理では——ない。ただ——」
バアルが歯を食いしばった。
「——欠けている。回路の一部が応答しない。冥界に残した部分だ。力の経路が途切れている。水路に堰を作ったようなものだ。流れを変えようとしても、堰の向こうに流れてしまう」
堰。冥界に残した力の一部が、堰のように制御を妨げている。流通管理の計画は正しい。だが流通経路自体に損傷がある。
「どれくらい制御できますか」
アシュタルが訊いた。
「——六割。十の力を出そうとすれば、六は制御できる。残りの四が暴走する」
「六割」
「それが今の限界だ」
雨が止まった。バアルが腕を下ろした。紋様の光が消えていく。神殿内の空気が乾いていった。
外を見た。天窓越しに空が見える。雲は薄くなっていた。暴風雨にはならなかった。穏やかな通り雨で終わった。
「六割で十分です」
アシュタルが言った。
バアルが振り返った。
「十分? 四割は暴走するんだぞ」
「六割制御できるなら、残りの四割は方向を逸らせばいい。前にやったでしょう。力を地面に逃がす方法。あれを組み合わせれば、実質的な制御率は八割まで上がる」
「八割——だがそれでも二割は」
「二割の暴走は、天候の揺らぎとして吸収できます。季節の変わり目に嵐が来るのは自然なことだ。完全に安定した天候のほうが不自然です」
バアルがアシュタルを見つめた。
嵐の神の青い瞳に——何かが浮かんだ。驚きではない。もっと深い何か。
「……完全でなくていい、と?」
「完全な制御なんて、商売でもありえません。市場は常に揺れる。相場は予測どおりにはならない。大事なのは完全に制御することじゃなく——揺れに対応できる仕組みを作ることです」
長い沈黙だった。
バアルが祭壇の縁に手をついた。疲労が見える。力の制御は体力を消耗する。両肩が小刻みに上下している。あれだけの体躯の男が、息を切らしている。アシュタルは旅の間ずっと見てきた。バアルは何でもない場面でも、時折こうして肩で息をする。力を抑えることは——呼吸と同じくらい常に続く作業で、だからこそ身体を削り続けている。
だが——表情には、先ほどまでの苦悶とは違うものがあった。疲れているが、絶望はしていない。やれる、という手応えが顔にあった。
「お前の言い方は——いつも新鮮だ」
「商人は新鮮さが命ですから。古い商品は売れません」
「商売の話ばかりだな」
「商売以外のことは苦手なんです」
「嘘をつけ。お前は商売以外のことにも首を突っ込む。冥界に来たのも商売のためではないだろう」
「あれは——投機です。大きな利益には大きなリスクが伴う」
「投機、か。命を賭けた投機か。——お前の用語は便利だな。何でも商売に翻訳できる」
バアルが祭壇の縁に腰を下ろした。神殿の石に座る嵐神は——不思議と、ただの疲れた男に見えた。汗を拭い、息を整え、壁にもたれる。何千年も生きた神が、人間と同じ仕草で疲労を癒している。
「笑うな」
「笑ってません」
「笑いを堪えている顔をしている。商人の目利きで読まれるのは不愉快だ」
「すみません。——でも少し安心しました」
「何がだ」
「嵐神も座って休むんだな、と」
バアルが鼻を鳴らした。だが——口元が微かに緩んでいた。
アナトが鼻を鳴らした。神殿の入口に立ち、外の空を見ていた。
「雨が上がった。——穏やかな雨だった」
それだけ言って、背を向けた。
穏やかな雨。暴風雨ではなく。嵐の神が呼んだ、静かな雨。
バアルの帰還は天災を伴った。だが——今日の雨は、恵みだった。干ばつに苦しむ畑を潤す雨。港の埃を洗い流す雨。
完全ではない。六割の制御。残りは暴走する。だが——六割の恵みがあれば、ウガルは生きられる。
神殿を出た。丘を下りながら、バアルが空を見上げた。
「欠けたものは冥界にある。取り戻すことは——おそらくできない」
「取り戻せないなら、欠けたまま使う方法を考えます。商人は不良在庫を抱え込みません。使えるものを使って利益を出す。それが基本です」
「不良在庫——」
バアルが苦笑した。
「俺の力が不良在庫か」
「いいえ。欠けた部分が不良在庫です。使えるほうの六割は——上物ですよ」
バアルが低く笑った。声を出して。
丘の下にウガルの街が広がっていた。傷だらけの港。壊れた波止場。だが——今日の雨で、畑の土が少し黒くなっている。水を吸った土の色。生きている色。
力は戻った。だが完全ではない。
完全ではないが——使える。
アシュタルは帳面に書いた。
バアル神力制御率——六割。暴走分は接地法で軽減可能。実質八割。残り二割は自然変動として許容。完全でなくてよい。




