地上の光
父タグムは帳場で待っていた。
二階から降りてきたアシュタルの顔を見て——目が赤いことに気づいたはずだ。だが何も言わなかった。代わりに、帳場の椅子を引き、「座れ」と顎で示した。
座った。向かい合った。帳場の机を挟んで、父と息子が向き合うのは半年ぶりだ。机の上には帳面が一冊だけ開かれていた。父の帳面。太い文字が几帳面に並んでいる。日付と金額と品目。商会の日常業務の記録。嵐の被害があっても、帳面だけは毎日つけていたのだろう。
「ヤリムに会ったか」
「はい」
「声は——もう出ない。三ヶ月前に完全に止まった。筆談で生活している」
三ヶ月前。アシュタルが冥界にいた頃だ。弟が最後の声を失った時、兄は死者の国にいた。
「他の症状は」
「味覚と声の他に——触覚が鈍り始めている。指先の感覚が薄い。だが歩ける。食べられる。眠れる。命に関わる段階ではない。まだ」
まだ。その一語が重い。
「母さんは」
「奥にいる。体が弱っている。印の直接の影響というより——心労だ。ヤリムの看病と、お前の不在と、嵐と。全部が重なった」
父の声は淡々としていた。感情を排した報告。商人の報告。だが「お前の不在」という言葉の前に、一瞬だけ間があった。その間に、半年分の不安が圧縮されていた。
「すみません」
「謝るな。お前は約束通り帰ってきた。謝る必要はない。——報告しろ。何を見つけた」
商人の父は、息子に報告を求めた。感傷の時間は終わりだ。
アシュタルは帳面を開いた。旅の間に書きつけた記録。神々との交渉の経緯。アナトとの契約。冥界への道程。モトとの取引。バアルの帰還。天候暴走。印が消えないこと。
全てを——簡潔に。商人の言葉で。
タグムは黙って聞いた。太い腕を組み、時折眉を動かすだけ。質問は挟まなかった。全て聞き終えてから判断する。これも父の流儀だ。
報告が終わった。
長い沈黙があった。
タグムが帳面に目を落とした。自分の帳面ではなく、アシュタルの帳面を。息子が旅の間に書きつけた数字と文字を、太い指でなぞった。
「バアルを、連れてきたのか」
「はい。今、外にいます」
「嵐の神が、うちの門の前にいる」
「そうです」
父が鼻を鳴らした。呆れているのか感心しているのか、判別がつかなかった。
「連れてきたのなら、挨拶くらいさせろ」
「——いいんですか」
「何がだ」
「神ですよ。嵐の神です」
「お前が連れてきたなら、客だ。客には茶を出す。商人の基本だろう」
アシュタルは立ち上がった。扉を開けて外に出た。
バアルは路地に立っていた。壁に背を預け、空を見上げている。嵐の神の目に映るウガルの空は、どう見えているのだろう。自分の力の残滓を含んだ雲が流れる空。
アナトは少し離れた場所にいた。腕を組み、通りを眺めている。だが視線は——先ほどまでとは違っていた。何かを考え込んでいる。二階のあの光景を、まだ反芻しているのかもしれない。
「バアル。父が挨拶したいと」
バアルが振り返った。青い瞳がアシュタルを見た。
「父——商人の」
「ええ。茶を出すそうです」
「茶?」
「客に茶を出すのが商人の礼儀です」
バアルの口元がわずかに緩んだ。
「面白い家だな」
帳場に戻った。バアルが入口をくぐった。嵐の神は背が高い。鴨居に頭がぶつかりそうになり、身をかがめた。その仕草が妙に人間くさかった。
タグムが立ち上がった。
バアルとタグムが向かい合った。
嵐の神と、港の商人。一方は数千年を生きた神族の王。もう一方は四十代半ばの人間の商人。体格はタグムのほうが横に広い。だが目線はバアルのほうが高い。
タグムが目を細めた。
商人の目だ。値踏みの目。相手が何者であるかを、肩書きではなく目の奥を見て判断する目。アシュタルが受け継いだ目。
「息子が世話になったそうだ」
タグムの声は変わらなかった。相手が神であろうと、声の調子を変えない。これが父だった。
バアルが顎を引いた。
「世話になったのは俺のほうだ。お前の息子がいなければ、俺は今もあの場所にいた」
「そうか」
タグムが頷いた。深くは訊かない。「あの場所」が冥界であることは、息子の報告で聞いている。だが追及しない。必要な情報は得た。あとは相手の目を見て信用を測る。
「あんたが嵐の神だと、息子は言っている」
「そうだ」
「なら——嵐を止められるか」
単刀直入だった。父は回りくどい言い方をしない。
バアルの表情が動いた。苦い色が浮かんだ。
「完全には——まだ難しい。力が不安定だ」
「そうか。なら、少しずつでいい。船が出せる日が増えれば、商売が回る。商売が回れば街が生きる」
「……努力する」
「努力は結構だ。結果が出たら教えてくれ。帳簿に書くから」
バアルが——目を丸くした。
そしてアシュタルを見た。
「……お前の父親か」
「ええ」
「似ているな」
「よく言われます」
タグムが茶を出した。粗末な土器の杯に、薄い茶が注がれた。バアルがそれを受け取り、一口飲んだ。嵐の神が人間の茶を飲む光景は、どこか不思議で、だが不自然ではなかった。
「もう一つ」
タグムがアシュタルに向き直った。
「銅のペンダントは持っているか」
右手が腰の袋に伸びた。旅の間、ずっと持ち歩いていた。祖父の形見。父が出発の日に渡してくれたもの。「これが何か分かるか?」「分からんなら、分かった時にまた教えてくれ」。
取り出した。銅の円盤。紐に通された古い金属片。表面には細かな紋様が刻まれている。何度も見たが、意味は分からなかった。
テーブルの上に置いた。
「まだ分かりません」
タグムが頷いた。
「ならまだ旅の途中だな」
その一言が——不思議と、胸に染みた。
父はアシュタルが答えを見つけるまで待つと言っている。帰ってきたことを喜ぶでも、答えが出ないことを咎めるでもない。「まだ旅の途中だ」と、ただ事実を述べている。
商人は相場を待つ。焦る者が負ける。
父の教えだ。
バアルがペンダントを見ていた。青い瞳が銅の表面をなぞっている。何かに気づいた——いや、確認した表情だった。
「これは」
「分かりますか」
「……古い」
バアルの声が低くなった。
「古い——契約の匂いがする」
タグムの目がわずかに動いた。だが問い返さなかった。バアルの言葉を、帳面に書き留めるように記憶に刻んでいる。
「お前が連れてきたなら信じる」
タグムがバアルに言った。
「神だろうが何だろうが、息子が信じた相手は、俺の客だ」
バアルが目を細めた。
「……いい商人だな」
「商売は信用が全てだ。あんたの信用は——息子が担保している。あの子がそこまでして連れてきたなら、相応の理由がある。俺はそれを信じる」
父の言葉が重かった。信用。信頼。これは商売用語だが、父はそれ以上の意味を込めている。息子を信じている。息子が判断した相手を信じている。
アシュタルは帳面を閉じた。
泣きそうだった。二度目だ。今日は泣きすぎだ。商人失格にもほどがある。
「ありがとうございます」
父が鼻を鳴らした。
「礼はいらん。帰ってきたなら働け。帳場に座れ。帳簿が溜まっている」
「今日からですか」
「当たり前だ。半年分の遅延損害金は、働いて返せ」
シャリムと同じことを言っている。この街の人間は、帰還を喜ぶ代わりに借金を突きつけてくる。
だがその借金が——温かかった。
バアルが茶を飲み干した。杯をテーブルに置く音が、小さく響いた。
「いい茶だった」
嵐の神が、港の商人に礼を言った。
タグムが黙って頷いた。相手が神であっても、客の礼には頷きで応える。それが商人の流儀だ。
帳場に夕日が差し込んでいた。橙色の光が帳面を照らし、銅のペンダントを輝かせていた。
まだ答えは出ていない。ペンダントの意味も、印の正体も、この旅の終着点も。
だが父が信じてくれている。
その信用に応えなければならない。




