契約成立
家の前に立った時、足が動かなくなった。
石造りの二階建て。一階が帳場で、二階が居住区。屋根の一部に修繕の跡がある。新しい板材が古い石壁に打ちつけられている。嵐の被害を受けたが、崩壊はしていない。父が修理したのだろう。ベン=シャハル商会の看板は——残っていた。風雨に晒されて色褪せているが、確かにそこにある。
この扉を開ければ、家族がいる。
足が動かない理由を、アシュタルは分かっていた。恐怖ではない。緊張でもない。出発した時と同じ家族がそこにいるかどうか——それが怖いのだ。印は消えていない。一族の症状は進行しているはずだ。ヤリムの声は——。
「入らないのか」
アナトの声だった。門の脇で腕を組んでいる。バアルは少し離れた路地に立ち、街の空気を感じている。二人は家族の再会に立ち入るつもりはないようだった。
「ちょっと——足が固まりまして」
「戦場で足が止まる兵士は死ぬぞ」
「ここは戦場じゃないですよ」
「お前にとっては戦場だろう」
否定できなかった。
深く息を吸った。潮風と石壁の匂い。懐かしい匂い。この匂いの中で育った。この匂いの中に帰ってきた。
扉を押した。
帳場は暗かった。以前は日中も油灯を灯し、帳面が広げられ、客の声が飛び交っていた。今は灯りが減り、帳面は棚にしまわれ、客の姿はない。だが掃除はされている。埃は積もっていない。父の流儀だ。「商売が止まっても帳場は磨け」が口癖だった。
「——誰だ」
奥から声がした。
低く、太い声。掠れているが、芯の通った声。防波堤のような声。
父タグムが奥の間から姿を現した。
大柄な体躯は変わっていない。だが痩せた。頬がこけ、目の下に深い隈がある。白髪が増えた。半年前は白髪混じりだった短い髪が、今はほとんど白い。太い指は変わらないが、肌の色が——少しだけ、灰色がかっている。印の影響だ。
父の目がアシュタルを捉えた。
一瞬、動きが止まった。太い眉がわずかに上がった。それだけだった。タグムは感情を顔に出さない。商人の鉄則だ。だが——目が赤くなった。ほんの一瞬。まばたきで消えたが、アシュタルは見逃さなかった。
「帰ったか」
それだけだった。
「帰りました」
「飯は食ったか」
「まだです」
「なら食え。母さんが——」
タグムが言いかけて、口を閉じた。奥の間のほうに視線を向けた。
「母さんは奥にいる。体調が——まあ、会えば分かる」
母のことは後で訊こう。まず——もう一つ、確認しなければならないことがある。
「ヤリムは」
父の表情がわずかに曇った。
「二階だ」
その三文字の重さが、胸に刺さった。二階。弟は二階にいる。以前のヤリムなら、この時間は港にいた。波止場で船を眺め、船乗りたちに話しかけ、帆の張り方や潮の読み方を教わっていた。それが——二階にいる。
階段を上がった。
一段ごとに、心臓が早くなった。木の階段が軋む音。幼い頃から数えきれないほど上り下りした階段。この音は変わっていない。変わったのは——上った先にいる弟の状態だ。
ヤリムの部屋の前に立った。
扉は開いていた。薄い光が差し込む部屋の中に、弟がいた。
窓辺に座っていた。椅子に腰かけ、窓の外を見ている。港の方角だ。船が見えるのだろう。細い体が——さらに細くなっていた。もともと華奢な少年だったが、今は骨の輪郭が浮き出ている。肌の色は灰色がかり、唇は乾いている。
だが——髪を後ろで束ねている。兄と同じ結い方。いつの間にか、弟は兄の真似をするようになっていたのだろうか。それとも以前からそうだったのに、気づかなかっただけだろうか。
「ヤリム」
声をかけた。
弟が振り返った。
一瞬の間があった。琥珀色の目——兄と同じ色の目が、アシュタルを見つめた。そして——その目が、みるみるうちに潤んだ。
ヤリムが立ち上がった。椅子が音を立てて後ろに倒れた。弟が駆け寄ってきた。痩せた体が、アシュタルの胸にぶつかった。両腕がアシュタルの背中に回った。
声は——出なかった。
ヤリムの口が開いている。何かを言おうとしている。喉が動いている。だが音にならない。声が、完全に失われていた。
出発の時はまだ掠れた声が出ていた。声のない「甘いもの」は口の動きだけで読み取った。だが今は——声を出そうとする仕草すらぎこちない。喉の筋肉が、声を出す方法を忘れかけている。
弟の背中に腕を回した。
細い。こんなに細かったか。肩甲骨が手のひらに当たった。温度は——ある。まだ温かい。まだ生きている。灰色がかった肌の下で、弟の心臓は動いている。
ヤリムが顔を上げた。泣きそうな顔だった。だが涙は出ていない。涙腺も——鈍っているのかもしれない。
口が動いた。
アシュタル。
声にならない兄の名前。唇の動きだけで読み取れた。
「うん。帰ってきたよ」
ヤリムが頷いた。何度も何度も頷いた。そして——ふいに、腰の袋を探った。何かを取り出そうとしている。
紙だった。小さな紙片。書きつけた文字。
アシュタルはそれを受け取った。
弟の文字だ。まだ覚えている。丸くて少し左に傾いだ文字。以前より上手くなっている。半年の間に、たくさん書いたのだろう。声の代わりに。
紙にはこう書いてあった。
おかえり。甘いもの、買ってきた?
喉の奥が、痛くなった。
覚えていた。半年前の約束。味覚を失った弟が、それでも「甘いもの」を欲しがった。味が分からなくなっても、甘いものが食べたいと言った。その約束を——弟は、半年間ずっと覚えていた。紙に書いて、兄が帰ってくる日のために用意していた。
腰の荷袋に手を入れた。
あった。
旅の途中、立ち寄った街の市場で買った蜂蜜菓子。薄い小麦の生地に蜂蜜を練り込み、胡麻をまぶして焼いたもの。カナアンの港町でよく売られている菓子で、日持ちがする。帳面に挟んでいた。帳面は常に持ち歩いていたから、冥界にも持ち込み、冥界から持ち帰った。蜂蜜菓子もまた、冥界を往復したことになる。
布で包んだそれを取り出し、ヤリムの前で開いた。
「買ってきたよ。約束だからな」
ヤリムの目が輝いた。
受け取った。小さな菓子を両手で持ち、鼻に近づけた。匂いを——嗅いでいるのだろうか。嗅覚も鈍っているかもしれない。だが弟は目を閉じ、菓子を鼻先に近づけ、深く息を吸った。
そして——一口、齧った。
噛んだ。ゆっくりと。菓子の欠片が口の中で砕ける音がした。胡麻の粒が歯に当たる音。蜂蜜の層が舌に触れる感触。
ヤリムの表情が——止まった。
味が、分からないのだ。
舌が甘さを感じない。蜂蜜の甘さも、胡麻の香ばしさも、小麦の素朴な風味も。何も伝わらない。味覚は失われたままだ。半年経っても、戻っていない。
弟の目が——一瞬だけ、揺れた。
落胆。それは一瞬だった。ほんの一瞬、琥珀色の瞳に影が差した。
だがすぐに——ヤリムが笑った。
声のない笑顔。目が細くなり、頬が持ち上がる。口の端が上がる。半年前と同じ笑顔。味が分からなくても、甘いものを齧りながら笑っている。
ヤリムが紙を取り出した。急いで文字を書いた。
おいしい。ありがとう。
嘘だ。味は分かっていない。分かっていないのに「おいしい」と書いた。兄のために。兄が約束を守ってくれたことが嬉しくて、味が分からなくても「おいしい」と書いた。
アシュタルの目が——熱くなった。
商人は泣かない。泣いたら足元を見られる。取引の場で涙を見せるのは敗北だ。父にそう教わった。帳面が防壁だ。数字が感情を堰き止める。
だが今は帳面を持っていなかった。
帳面は腰にある。だが取り出す気にならなかった。数字では堰き止められないものが、胸の奥から込み上げてきた。
涙が——一粒、頬を伝った。
「……ごめん。まだ——まだ、味は戻せてない」
ヤリムが首を横に振った。
紙に書いた。
いいよ。兄ちゃんが帰ってきたから。
二粒目が落ちた。
弟を抱きしめた。細い体を、壊さないように。壊れそうなほど細い体を、それでもしっかりと。弟の心臓が、胸に当たって脈打っていた。生きている。まだ生きている。味覚を失い、声を失い、それでも——兄の帰りを待っていた。甘いものを食べる約束を、紙に書いて用意して待っていた。
部屋の入口に——気配があった。
振り返らなかった。だが分かっていた。アナトだ。
戦争の女神は足音を立てない。だが気配は消せない。というよりも——隠す気がなかった。階段を上がってきたのだろう。何の目的でかは分からない。だがそこに立っている。
アナトは何も言わなかった。
だがその沈黙は——いつもの沈黙とは違った。刃の沈黙でも、重い沈黙でもなかった。
何かを——目撃してしまった者の沈黙だった。
アシュタルが弟を抱いて泣いている。商人が、交渉人が、冥界を渡り歩いた男が——味の分からない蜂蜜菓子を前にして、十四歳の弟に抱きついて泣いている。
弱さだ。誰がどう見ても弱さだ。
だがアナトは——去らなかった。
しばらくして、気配が消えた。足音は聞こえなかった。ただ——気配だけが、静かに遠ざかった。
ヤリムが背中を叩いた。ぽん、ぽん、と。軽い手のひらで、兄の背中を叩いた。泣くなよ、と言っているようだった。声のない弟が、声の代わりに手で伝えている。
顔を上げた。
弟が笑っていた。蜂蜜菓子の欠片が唇についている。味は分からない。でも笑っている。
「必ず——味を戻す。約束だ」
ヤリムが頷いた。大きく、力強く。
アシュタルは袖で目を拭った。みっともない。帰ってきた早々に弟の前で泣くとは。商人失格もいいところだ。
だが——約束が一つ、増えた。
甘いものを買ってくる約束は果たした。次は——味を取り戻す番だ。
印を消す。味覚を戻す。弟にもう一度「おいしい」と——本当の意味で「おいしい」と言わせる。
そのために、この旅はまだ終わらない。




