商人の署名
門をくぐった瞬間、匂いが変わった。
潮風に混じっていた乾いた砂の気配が消え、代わりに濡れた石と泥と——焦げた木材の匂いが鼻を突いた。アシュタルは足を止めた。門の内側から見るウガルは、記憶の中のウガルとは別の街だった。
右手の通りは、以前は革職人の工房が並んでいた。日除けの天幕が色とりどりに張られ、革の匂いと染料の匂いが混じり合う、活気のある通り。今は天幕の半分が失われていた。嵐で吹き飛ばされたのだろう。残った天幕も端が破れ、風にはためいている。工房の一つは屋根が崩落し、中の道具が雨ざらしになっていた。
左手には港に続く坂道がある。石畳の隙間から雑草が伸びていた。数ヶ月の不在で雑草が生えるはずはない。つまり——街の手入れに手が回っていない。人手が足りないのだ。
「ひどいな」
バアルの声が低く沈んだ。
嵐の神は、自分の力が引き起こした被害を見つめていた。崩れた屋根。割れた壷。路上に散乱した荷物。雨水が溜まった窪み。どれも季節外れの暴風雨の爪痕だった。
アナトは無言だった。金色の瞳が街並みを走査している。戦場の偵察と同じ目つきだ。被害の規模を測っている。
「行きましょう」
アシュタルは歩き始めた。立ち止まっていても被害は減らない。まずは現状を把握する。商人の基本だ。
坂道を下った。港が見えた。
ウガルの港は地中海に面した天然の良港で、三つの波止場と二つの倉庫群を持つ。アシュタルが生まれた時から、港はウガルの心臓だった。船が血液で、荷物が栄養で、商人がその循環を動かす筋肉。心臓が止まれば街は死ぬ。
心臓は——止まりかけていた。
三つの波止場のうち、一つが半壊していた。木製の桟橋が折れ、支柱が斜めに傾いている。残りの二つも損傷が見える。停泊している船の数は、記憶の三分の一以下だ。
「船が少ない」
呟いた。商人の目が数字を拾う。停泊船は七隻。出発前は常に二十隻以上が港にいた。外国船に至っては一隻も見えない。交易が止まっている証拠だ。
倉庫群のほうに目をやった。大きな石造りの倉庫が二棟。そのうち一棟の壁に亀裂が走り、応急処置の板が打ちつけられていた。もう一棟は無事に見えるが、扉の前に人が並んでいる。配給だろうか。食糧の備蓄に不安がある時の光景だ。
「あの並んでいる人たちは何だ」
バアルが訊いた。
「食糧の配給です。たぶん。港が機能しなくなれば、輸入食糧が止まる。ウガルは自給率が低い。穀物の七割は外から買っていますから」
バアルが黙った。顎を引き、目を細めた。嵐の神の表情に浮かんだのは、怒りではなく——責任だった。自分の力が、この街をこうした。その認識が、嵐神の肩に重くのしかかっている。
「あなたのせいじゃない」
アナトが言った。短く、鋭く。
バアルを見上げている。赤い髪が潮風に揺れた。金色の瞳には——兄を庇おうとする光がある。
「力が暴走したのは冥界の代償だ。お前が選んだのではない」
「いや——俺の力だ。俺の責任だ」
「兄上」
「いい、アナト」
バアルが静かに首を振った。
「見なければならない。目を逸らしていい被害ではない」
アシュタルは帳面を開いた。
被害の記録を取り始めた。波止場の損壊状況、停泊船の数、倉庫の状態、配給の列の長さ。数字に変換すれば、感情の入り込む余地が減る——はずだった。だが今回は、数字そのものが重い。この港はアシュタルの故郷だ。帳面に書き込む数字の一つ一つが、幼い頃から見てきた風景の損傷報告になっている。
「おい」
声がかかった。
振り返った。坂の上から、男が駆け下りてきた。背の高い、日焼けした若い男。商人の服を着ているが、袖をまくり上げ、額に汗を光らせている。荷運びでもしていたのだろう。
その顔を見た瞬間、アシュタルの胸の中で何かが弾けた。
「シャリム」
親友の名前が口をついた。
シャリムが坂を駆け下り、アシュタルの前で足を止めた。息を切らしている。目が大きく見開かれていた。
「お前——お前、生きて——」
「生きてますよ。見ての通り」
「見ての通りじゃねえだろ馬鹿! 半年だぞ! 何の連絡もなく半年!」
シャリムの声が裏返った。
怒っているのか泣いているのか分からない顔だった。おそらく両方だ。
「すみません。手紙を出す余裕がなくて」
「余裕がない? 余裕がない、だと? こっちは——お前の親父さんに何度『アシュタルから連絡は?』って訊かれたと思ってんだ。タグムさんは何も言わないけど、目が——目がな——」
シャリムが言葉を飲み込んだ。唇を噛んでいる。
アシュタルは黙って待った。商人は相手の言葉を待つ。
「……いいよ。帰ってきたならいい。——で、後ろの連中は誰だ」
シャリムがバアルとアナトに目をやった。警戒の色はない。アシュタルの連れなら信用する、という顔だ。
「旅の仲間です。詳しくは後で」
「後でって——まあいい。先に言っておく。街は見ての通りだ。嵐がな、ひどかった。二ヶ月前の嵐で波止場が壊れて、修理が追いつかない。外国船が来なくなって交易が半分以下になった。食糧も足りない」
シャリムの声が落ち着いてきた。状況説明に入ると、商人の顔になる。アシュタルと同い年の若い商人。子供の頃から二人で帳面を見比べ、どちらが正確に暗算できるか競い合った仲だ。
「商会は」
「お前んとこ? タグムさんが踏ん張ってる。ベン=シャハルは備蓄が多かったから、配給にも回してる。他の商会はもっとひどい。三軒潰れた。四軒目も時間の問題だ」
三軒。潰れた商会が三軒。ウガルは小さな港湾都市だ。商会の数は多くない。三軒が消えれば、交易の網に穴が開く。
「シャリム。あんたは」
「俺はずっとここにいたよ。荷運びと配給の手伝い。帳面だけ触ってても商売にならないからな。——利子つけて返してもらうぞ」
出発の日に言われた言葉だった。あの時シャリムは港で見送りながら、怒ったような泣きそうな顔で「利子つけて返せよ」と言った。同じ言葉。同じ顔。
「利子は高くつきますよ」
「当たり前だ。半年分だぞ」
シャリムが鼻を啜った。
帳面を閉じた。数字の記録は後でいい。今は——まず、この街が生きていることを確認する。壊れているが、死んではいない。シャリムがいる。父が踏ん張っている。配給が行われている。心臓は止まりかけているが、まだ脈を打っている。
「案内してくれますか。街の被害状況を見たい」
「お前、帰ってきたばかりだろ。先に家に——」
「先に街を見ます。商人は帳場に入る前に市場を見ろ。父さんの教えです」
シャリムが一瞬だけ目を瞠った。そして——小さく笑った。
「変わったな、お前」
「そうですか」
「うん。前は、もっとへらへらしてた。今は——何ていうか、腰が据わってる」
アシュタルは返事をしなかった。代わりに、坂道を見上げた。ウガルの街並みが広がっている。傷だらけの、だがまだ生きている街。
帰ってきた。
ここに帰るために、冥界まで行った。七つの門を越え、死神と取引し、嵐神を連れ戻した。
だが帰ってきた街は、出発した時の街ではなかった。
シャリムの横を歩きながら、被害状況を目に焼きつけた。数字は後で帳面に落とす。今は——風景を記憶する。商人の記憶力で、一軒一軒の損傷を覚える。
バアルが後ろを歩いていた。嵐の神は、自分の力が壊したものを、一つずつ見つめていた。
アナトはバアルの半歩後ろにいた。兄の背中を守るように。だが視線は——時折、アシュタルの背中に向いていた。
帰還した街は変わっていた。だがこの街を守った者たちがいた。
アシュタルは帳面を握り締めた。帰ってきた。だがまだ、仕事は終わっていない。




